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課題集 黄テイカカズラ の山

○自由な題名 / 池新



★ねえ、諸君。霊魂だとか(感) / 池新
 ねえ、諸君。霊魂だとか霊気だとか、あなた方はただ抽象的にそれを考えているかもしれないけれど、これはね、科学的にはっきり「ああ、そうか」っていうことがうなずけるようになるから。
 いいかい。あなた方は、自分ひとりだと思っている。ところが、もう一人の自分がいる。
 私は、それをインドで初め言われたときにわからなかった。
 「お前は、もう一人のお前が、本当によく物を考えられるんだから、もう一人のお前に考えさせろ。もう一人のお前が、良い、悪いはすべて天地見通しだ。お前でないものに、お前だと思って考えさせてるから、いつまでたったってお前のほんとうの考え方は出ないんだ。もう一人のお前に頼めよ。頼んで、すべて考えてもらえ」
 さっぱりわからないんだ。雲つかむようなことばかり言うと思った。ところが、どういたしまして。わかってみれば、なるほど確かにそうだ。我々は情けないかな、我々の感覚で認識しえる存在を自分だと思い込んでいるという錯誤を、錯誤と思わないで生きてるために、感覚で感じないところにほんとうの自分がいることを知らない。
 (中略)
 批判して聞いてわかろうはずがないぜ。自分のほうにそれだけの知的用意のないのに、自分の論理思索で自分が承認するまで理論分解をやって聞こうとしたら、これはわかりっこない。高等数学のデフィニーション(定義)を知らない人間がだよ、これを立派に解決しようとする計画と同じことじゃないか。三角のデフィニーションを知らないものが、三角をいくらにらめてたからって、サインが何で、コサインが何で、タンゼントが何だかわからないじゃないか。
 だから、聞いたことをわかろうとしないで、わからないことはそのままわからないとして、心のなかに受け納めとけばいい。批判的でなく聞いていると、今は何が何だかわからないように感じていても、何事かあるときにバッと違いますよ。違った姿をみたときの喜びは、これは言外の、形容の言葉もないエクスタシーであります。ああ、変わったなあ、昔はこんなことがあったら、もういても立ってもいられないほどおどおどしちゃうんだが、ああ、やっぱり自分の正体が気であるというところに自分の気持ちがいっていたんだなと。
 そうすると、例の平(たいら)炭坑に私が行ったときなんかも、こういう話を正しく理解しない人は、無謀だなあとか、あるいは無茶だなあとか、あるいはあれだけの胆力がなあと思うかもしれないが、胆力でも何でもないんだよ、これは。そうだろ。私は無邪気に入っていったんだもの。胆力で、「くそ、こんちきしょう、おっかなくあるもんか」なんて気分で入っていったんじゃないんだもの。
 正しいことをしてる人間に正しからざる出来事の生ずるはずはない、ということが私の信念だから、そいつをそのときに、あえて改めて頭の中で思いなおしはしませんよ。橋を渡りながら、いま俺は正しいことをしに来たんだ、したがって、正しくない人間が鉄砲で撃ったって、私に当たりゃあせん、なんて思って行きはしない。何にも考えないの。何にも考えない、いわゆる無我無念のときに、自在境というものがあらわれるもんなんだ、ねえ。
 「成功の実現」(中村天風著)