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課題集 黄タラ の山

○自由な題名 / 池新
○ゴミ / 池新


★丘博士が挙げているのは(感) / 池新
 丘博士が挙げているのは、恐竜はなぜ滅んだのかということと、マケロズスというナイフのような牙を持ったトラがなぜ滅びたかということであった。丘博士によれば、恐竜はその大きさからいえば当時は無敵であったが、巨大化するにつれ、その巨大さがマイナスになっていったという。
 たとえば、頭の先から尻尾の先まで体長が三十メートルの恐竜がいたとする。大きさからすれば、おそらく無敵である。ところが、恐竜はトカゲの類であるから、肉食の動物からすると食べればおいしいに違いない。恐竜から見ればゴミも同然の、現在のトラやライオン、オオカミの先祖のような哺乳類が尻尾をかじるようなこともあっただろう。かじられた恐竜のほうは、身体が大きいため、「痛い」と感ずるまで三秒ぐらいかかってしまう。ようやく「痛い」と感じて見てみれば、尻尾がかじられている。怒って尻尾を振るうとしてもやはり何砂かかかる。いわんや踏みつけようとして回ろうとすれば、その間に尻尾をかじったほうの動物は逃げてしまう。
 これが繰り返されれば、恐竜は当然危機感を募らせる。そこで恐竜はどうするかといえば、自分を強くした要素をさらに強くしようとする。すなわち、恐竜を無敵にしたものは巨大化であったのだから、さらに巨大化していくことになる。そうすると、以前にも増して他の動物から食われやすくなる。そしてついに滅びてしまった。恐竜が滅んだ理由に関しては様々な説があるが、こうした仮説も十分に考えられる。
 恐竜だけではなくマケロズスのトラも滅んでいる。なぜ滅んだかというと、化石の方面の研究では、優れた牙がどんどんどんどん発達し、とうとう自分の顎まで破るようになって滅びたと考えられている。とすると、過去においてある動物を滅ぼしたのは、じつはその動物を無敵にした要素が度を越したことだという説が成り立つ。同じトカゲの類でも恐竜のようにならなかったトカゲは生きているし、トラでもマケロズスのように牙の大きくないトラやネコ族は生き続けている。こうした現実を考えても、やはり圧倒的に強くなったとき、強くした要素を必要以上に強くすると逆転するということが進化論から類推できる。
 このことをもとに丘博士が警告していることが、ことさら注目に値する。
 日露戦争で日本は、とても勝てるとは思わなかった当時の白人国の中でも最も強い国の一つ、ナポレオンを裸にして追い返したロシアと戦って勝った。そのときの日本人の喜びあるいは誇りは想像に余りあるものがあるが、丘博士はこれに警告を発している。確かにロシアに勝った陸軍・海軍がいることは慶賀すべきことであるが、だからといって軍事を強くしすぎるならば、逆にそれに振り回されて国を滅ぼすことになりかねない、という主旨のことを述べているのである。それが日露戦争が終わってから間もない頃なのだから、驚くべき卓見といわざるを得ない。
 (中略)
 国鉄は、分割したために恐竜でなくなったのである。恐竜ではなく、普通サイズのトカゲになったから生き延びているといってもよい。そのアナロジーで、学校制度を考えた。明治五年(一八七二)に学制発布が始まってからの日本人の学校をつくる努力、情熱、これはまさに賞賛に値する。ところが学校網が完成した頃になると学校にあらゆる問題が出てきた。不良少年がバイクで廊下を走るというような、昔では想像もつかなかったことが起こる時代になった。
 学校問題が取り沙汰されるようになった当時の田中角栄首相は、あまり質のよくない先生が多いためにこうなったのではないかと考えた。おそらく田中首相は、自分が受けた小学校教育に対して非常に温かな思い出があったのだろう。事実、彼が小学校の頃は立派な先生がいて、学級崩壊などということも全然なかったのだから、そう考えたのも当然かもしれない。そして、田中首相は教育関係者の質を高めようと、給料を通常の公務員よりも二割程度高くした。
 それによって、確かに優秀な人たち、すなわち学校の成績のいい人たちが多く集まるようになった。ところが、その頃からさらに学校の荒廃が加速している。これは、恐竜が尻尾を食われるようになり、その危機を脱するためにさらに巨大化し、さらに食われやすくなった構図とイメージが重なる。とすれば、この状態から抜け出る道は、小さく分けること以外にはない。それは、塾という形で分けるのがいいのではないかと考えたわけである。
 この「恐竜のパラダイム」は、社会現象の多くのものに通じていると思う。戦前の日本の海軍・陸軍も、あらゆる国力を絞って極限まで巨大化し、敗戦にいたったことはわれわれもよく知っている。また、ソ連をはじめとする社会主義体制もこれ以上できないほどの一極集中の国家運営を行って瓦解した。文字通り、瓦が崩れるように崩壊してしまった。
 こうした現実を見ると、たとえば、社会政策もせいぜい自由主義政策の欠点を補う程度であればいいものを、限度を越して推し進めると、あるとき突如瓦解するのではないかと考えることができる。おそらく、いまの社会保障制度なども、あるとき突如瓦解するのではないか。これは、教育から考えたアナロジーである。
 いうまでもなく、いまの教育制度のほうはすでに滅びゆく恐竜の段階に入っている。

 「教育は何を目指すべきか」(加藤 寛 他)