昨日795 今日432 合計157048
課題集 黄ススキ の山

○自由な題名 / 池新
○未来 / 池新

○「広告は」を読んで / 池新
★競争というのは(感) / 池新
 競争というのは、闘争に他ならない。相手を叩きつぶして自分がのしあがる。そうしないと、社会の中で敗者になってしまう。そういう闘争を、学校の中で、会社の中で、あくことなく繰りひろげ、そのバイタリティーが文明社会を活性化させている。
 当然、子供に対する教育は、この競争社会の中で上手に生きていけるように、敗者にならないように、というのが目的になる。そして幼少のころから「エゴから出た目的意識」が十分に育つように、そして重い鎧をまとうように、徹底的に訓練されていく。
 ところが、競争というのは勝者がいれば当然敗者も存在する。しかも、何度も書いてきたように、勝者といえども心の安住の地はない。
 ただ、ひたすらはしごを登っているときのみ「充実感」に満たされているだけで、登り終ると、不安感にさいなまれてしまう。つまり、競争というのは勝っても負けても心は平安ではない、ということだ。
 「だから皆が、瀕死の金魚みたいに口をパクバクさせて、癒しを求めるおかしな社会ができ上がってしまったんじゃないかな」
 そして、「癒しのセミナー」に大勢が群がってくる。そこで教えているのは、実は先住民がルーツであるフィロソフィーであることに、誰も気付いていない。ましてや、はるか昔に、自分たちの祖先がその先住民の文化を壊滅的に破壊したことなど、誰の意識にものぼらないだろう。
 「そうなんだよ。癒しのルーツを訪ねていくと、はるか昔の〃エゴから出た目的意識〃と〃イーグルに聞け〃の戦いに行きつくんだね」
 月日がめぐり、戦いに勝ったはずの「エゴから出た目的意識」型の社会が、必死になって「イーグルに聞け」の先住民の叡智を追い求めている、という皮肉な構図ができ上がってしまった。
 ところが、せっかくセミナーでいろいろなトレーニングをつんでも、また競争社会の中に舞い戻ると、元の木阿弥だ。
 「イーグルに聞け」を振りかざして「エゴから出た目的意識」と戦ったら、百発百中負けるだけだ。かといって、競争社会の中で戦いを避けていると、社会の中では敗残者になりかねない。
 後者の典型がニューエイジだろう。セミナーで教わった通り、我欲を減らし、「他力」に頼って生きている。しかしながら、一般の人からは、社会の片隅で肩を寄せ合って、ひそひそと過ごしているように見える。
 競争社会を川に、かつての先住民の社会を湖にたとえるなら、ニューエイジはとうとうと流れる急流の片隅にあるちょっとした澱みのようなものだろう。水はにごり、ゴミが浮いており、何やらアブクもたまっている。たしかに、平穏なのだが、勢いもバイタリティーも感じられない。急流で戦っている人の方が、よほどイキイキしているように見える。
 競争社会の急流で溺れそうになって、セミナーを受け、この澱みに身を移して、救われる人もたしかにいるだろう。
 
 しかしながら、急流を見慣れたほとんどの人は、このアブクの浮いた澱みにはまることに躊躇するのではなかろうか。「結局ね。いまの競争社会の中で癒しを求めたり、究極の幸福を追い求めたりするのは、とてもむつかしいのかもしれないな。暴飲暴食を続けながら、胃腸薬を飲んでいるようなもんで……」
 D博士は、言葉を完結しないまま、目を閉じてソファーに深ぶかともたれた。私は、あらためて周囲を見わたした。そう、この部屋は、いまをときめく時代の最先鋒の大企業の中にある、まさに、競争社会の殿堂であり、象徴なのだ。
 
 「幸福な人生の秘密」(天外伺朗)より