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課題集 黄ススキ の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新


★ここで、特定の思想を(感) / 池新
 ここで、特定の思想を推賞しようとは思いませんが、これから思想の大海に漕ぎ出そうとしているきみたちに、与えておきたい一般的注意はあります。
 まず、思想の持つこわさを知っておけということです。特定の思想はしばしば特定の人に、恐るべき吸引力を発揮します。そういう相手と早いうちに出会ってしまうと、他のものが何も見えなくなってしまいます。ブラックホールに引き入れられた星と同じで生涯そこから抜け出せなくなります。いわゆるハマった状態になってしまうわけです。特定の宗教思想に深入りした人はみんなそうです。オウムとか統一教会のような新興宗教だけでなく、キリスト教のようなトラディショナルな正統宗教だってみんなそうです。ハマると、自分の信じているものだけが真理であり、正義であり、他はみんな邪教で、虚偽と悪のかたまりだということになるんです。ぼくらが学生の頃は、マルクス主義がほとんど宗教と同じような、というより宗教以上に強烈な吸引力を発揮していた時代で、それにハマった人が少なくありません。
 そういうトラップに落ち込まないようにするためには、「絶対の真理なんてものはない」ということを知っておくことです。といっても、「絶対の真理はあるかもしれない。ないといいきってしまうのは、それ自体ドグマではないか」という考え方もなり立ちます。その通りです。これは最終的にはそう信じるしかないというたぐいのことです。
 少なくとも、過去において、「これが絶対の真理」と僭称する思想はいろいろあったが、そのどれ一つとして、それが絶対であることを客観的に証明したものはなかった。証明と称するものがなされたことはあったが、それをはじめから信じている者以外の人たちを納得させることはできなかった。これからも多分ないだろう。――以上の経験と予測をもとに、そう思うとしかいえないということです。
 こういうと、絶対の真理を信じている立場の人たちから、それを信じれば、あなたは永遠の生命が得られるのに、それを信じないとそれを失うことになる、といわれることがあります。最近は永遠の真理があるなんてことをいう人は、だいたい宗教思想か疑似宗教思想によって立つ人で、そういう人たちはたいてい最後はこういういい方で、信じない者をおどしにかかるわけです。
 それに対しては、「永遠の生命なんてもらっても迷惑ですから、ほしくありません」とはっきりいえばそれですむことです。逆に永遠の生命がほしいなんて思いこむと、簡単に宗教のワナにハマってしまいます。たいていの宗教が永遠の生命を約束していますから、片端からその手の宗教に入っていくと永遠の生命が山のように手に入ることになりますが、宗教にハマっていると、そのおかしさに気がつかないんですね。
 永遠の生命なんてありません。生命というのは、死と裏表なんです。死を受け入れることにおいて生命は成り立っているんです。「永遠の生命なんてない」「絶対の真理なんてものはない」ということを信仰箇条の第一に置けば、それから、多くのことが導けます。
 まず、いかなる思想にものめりこまず、ハマらず、必要以上に尊敬したりせず、軽い気持で接触することが大切だということがわかります。思想においては、花から花へ飛びまわる蝶のように、浮気したほうがいいんです。あがめたてまつってはいけません。思想なんてものは、特定のものに溺れてしまった人がその思想を語るように、ご大層なものじゃないんです。宗教に溺れた人がいうように、いかなるものにも絶対不可侵の神聖な起源なんて何もないんです。要するに、宗教とか思想というものは、ある時代の誰かが頭の中でこしらえて、頭の中からひねり出した一連の命題です。どんな大思想(といわれているもの)にも、笑ってしまう他ない珍妙な部分があります。そういう部分でちゃんと笑えることが、精神的に健康であることの証しなんです。しかし、若いうちから何かにのめりこんでしまうと、そういう健康さを失ってしまいます。
 
 「脳を鍛える」(立花隆)より