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課題集 黄シオン の山

○自由な題名 / 池新
○ペット / 池新


★梅雨が明けると(感) / 池新
 梅雨が明けると、明善は、すぐに天竜川の工事に取り掛かりました。照りつける真夏の太陽を浴びながら、人々と一緒に汗みどろになって働く明善は、毎朝晩、父・久平の病床を見舞い、工事の進み具合を報告。そして予定通り、九月の末には工事が終わり、十月四日に天皇は無事に天竜川をお渡りになられました。
 それを父に報告すると、父は、「だが、明善、天竜はあばれん坊だ。また、いつ何時あばれだすかわからない。それをおさえるのはもう私の力ではできない。あとは頼む」と、明善に後事を託しました。それからまもなくの十月二十二日に父は息を引き取り、その言葉はそのまま明善への遺言となりました。
 父が言い残したように、天竜川はこれからも氾濫し、あばれ続ける。それを防ぐには、崩れた堤防を直したり、強化するだけでは駄目だと考えた明善は、天竜川の流れを根本的に変える「天竜川転川計画」を立てました。
 例えば、二俣村から河口の掛塚村までの川幅を広げまっすぐに流れるようにする。鹿島村から浜名湖に水を流す新しい方をつくる。河口の川さらえをする。この計画が実行できれば、天竜川の氾濫が防げるだけでなく、舟で長産物を運んだりすることもできます。
 しかし、河口の掛塚村から反対の声があがりました。川の流れを変えることによって村がさびれるというのです。さまざまな村人の利害関係が複雑にからまり、天竜川の治水事業は遅々として進みませんでした。
 それでも何とか村人を説得し、明治七年には村の有力者から募った共同出資金三万円で「天竜川通堤防会社」を設立し社長に就任。ところが、今度は「明善は、他人のお金を集めて会社をつくり、社長になって金儲けする気だ」とかげ口をたたく者が出てきました。
 金儲けのための営利企業と受け取られることは、明善には心外でした。「会社」とか「社長」という名称が、このような誤解を生むのだと反省した明善は、改めて営利企業でないことをはっきりさせるために「治河協力社」と名称を変更し総裁に就任。そうすると、今度は配当を期待して出資しようとした人が出資を取り下げ、思うように資金が集まらなくなりました。
 資金不足で工事の進捗もはかばかしくなく、あとは政府の補助金が頼りでした。しかし、あてにしていた補助金も、折からの西南戦争で多額の出費が必要なため立ち消えになりそうでした。万策尽きた明善は、ある重大な決意をして明治十年十一月、身重の妻・玉城をともなって上京。以前から面識のある川村正平を通して時の内務卿・大久保利通に面会を求めました。
 明善は、もしこの願いが聞き入れられなかったら、生きて故郷に帰らじというほどの悲愴な覚悟であったといいます。玉城はその気持ちが痛いほどわかっていましたので、妊娠五か月の大事な体にもかかわらず、夫について上京しました。
 年の瀬も押し詰まった十二月二十六日、ようやく大久保に面会できた明善は、大久保に図面を見せながら、自分がこれまでやってきたことを説明し、これからの計画を熱っぽく語りました。
 そして、意を決して「金原家の全財産を政府に献納しますので、どうか天竜川の工事をさせてください」と訴えたのです。明善の熱誠は大久保の心を動かし、ついに政府の援助で治水工事が進められることになったのです。
 全財産を売却した明善は、天竜川のほとりに掘っ建て小屋を建て治水工事に打ち込みました。工事は順調に進み、「金原家の競売で買った物だが、お返しする」とか、「担保でお貸ししたお金は返してもらわなくてもいい。どうぞそのお金は工事に使ってください」と言って、次々と協力的な人たちが増えてきました。
 明治十四年、治河協力社の事業は軌道に乗っていたのですが、まもなく政府の補助金が打ち切られることになり、十八年には治河協力社は解散することになりました。解散して残ったお金が六万円。明善はそのお金で、山に植林をすることにしました。天竜川の治水のためにも、またこの地方の特産物としての木材産業を盛んにするためにも、植林による治山が重要だと考えたからです。
 明善が、最晩年によく書いた句があります。
 「私心絶万功成」(私心をひとたび絶てば万功成る)
 治山治水の慈善事業に生涯を捧げた明善の、これが最終的に到達した人生観だったのでしょうが、明善はこのことについて次のように述べています。
 「わしはこの言葉が好きだ。私心がなければ必ず万功成る。これに反して、少しでも私心があると、すべてのことは成功しない。
 その私心は、知らず知らずの間に生まれ、知らず知らずの間に、ちょっとしたことにも表れる。困ったものだ。
 この私心を取り除くのは大変なことで、大きな決心と覚悟がなければならない。私心のない人に会うと、大変こころよい。暗殺された大久保利通さん、それに山岡鉄舟さん、乃木将軍は、お目にかかってこころよい人たちだった。口数は少なく、ゆったりしていてやさしいけれど、私心が少しもなく、気持ちの大きな人たちだった。
 私心ほど人をあやまらせるものはない。私心のない人ほど、得がたい宝はない」
 その長い一生のなかで、明善は贅沢な屋敷を建てたり、別荘を持つようなことはありませんでした。着るものもみな昔ながらの粗末なものでした。それが庶民として一生を送った明善らしいところであり、その無私の精神が人々の共感を呼び、偉大な事業を生んでいったのです。
 
 「致知」二〇〇〇年六月号より
 明善(めいぜん)治河(ちか)玉城(たまき)