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課題集 黄シオン の山

○自由な題名 / 池新
○未来 / 池新


★文学史で(感) / 池新
 文学史で教わったと思いますが、「蟹工船」という小説を書いた小林多喜二という作家がいます。この人は、昭和の戦前、思想・社会運動を取り締まる特高警察に検挙されました。取り調べといっても、竹刀やムチで打たれたり柔道で投げられたりする毎日で、目は腫れ、口は裂け、髪の毛もずぼっと抜けるなどのひどい拷問を受けました。
 多喜二はやがて東京・多摩の刑務所に入れられますが、刑務所にも情けがあって、北海道の小樽にいる多喜二のお母さんに面会が許されました。刑務所から届いた手紙を読んでもらうと、五分間だけ面会を許すとのこと。指定された日時はいまから三日後の午前十一時となっています。お母さんは手紙を読んでくれた人に、「五分もいらない。一秒でも二秒でもいい。生きているうちに多喜二に会いたい」と訴えました。貧乏のどん底だったので近所の人にやっと往復の汽車賃だけを借りてその夜、雪が舞う小樽を発ちました。
 東京は遠く、汽車はすぐ止まってしまいます。するとお母さんは駅長さんに先の駅にも汽車が停車しているかどうかを尋ね、止まっていると聞くと五、六キロもの雪道を次の駅まで歩き、前の汽車に移ったそうです。「おばあちやん、無理だよ」と駅員に止められても、多喜二に会いたい一心で、汽車をつなぎにつないで指定時間の三十分前、刑務所に着きました。
 看守がその姿を見て、あまりにも寒そうなので火鉢を持ってきました。すると、お母さんは、「多喜二も火にあたっていないんだから、私もいいです」と、火鉢をよたよたと持って面会室の端っこに置きました。今度は別の看守が朝に食い残したうどんを温め直して差し出しました。「お母さん、何も食ってないんでしょ、食べなさいよ」。お母さんは車中、ほとんど食べていません。それでも、「多喜二だって食べてないからいいです」と、これも火鉢のそばに置きました。たぶん、食べる元気もなかったのでしょう。
 時間ぴったりに看守に連れられて面会室に現れた多喜二は、お母さんを一目見てコンクリートの床に頭をつけたまま、「お母さん、ごめんなさい」と言ったきり、顔が上げられません。すると、看守が「ほら、よく見ろ」と耳を持って顔を上げさせました。多喜二はまた、「お母さん、申し訳ありません」と言い、その途端、両目からバーツと滝のような涙を流してひれ伏してしまいました。わずか五分の面会時間です。言葉に詰まったお母さんを見かねた看守が「お母さん、お母さん、しっかりしてください。あと二分ですよ、何か言ってやってください」と言いました。ハッと自分を取り戻したお母さんは、多喜二に向かって、この言葉だけを残り二分間繰り返したそうです。
 「多喜二よ、おまえの書いたものは一つも間違っておらんぞ。お母ちやんはね、おまえを信じとるぞよ」その言葉だけを残し、お母さんは再び小樽に帰りました。
 やがて出獄した多喜二は、今度は築地警察署の特高に逮捕され、拷問によりその日のうちに絶命しました。太いステッキで全身を殴打され、体に何か所も釘か何かを打ち込まれ、亡くなったのです。
 もはや最期のとき、特高が、まだステッキを振り上げようとすると、多喜二が右手を挙げて、しきりと何かを言っているようです。「言いたいことがあるなら言え」と特高が水をコップ一杯与えました。すると、多喜二は肺臓から絞り出すような声で言いました。「あなた方は寄ってたかって私を地獄へ落とそうとしますが、私は地獄には落ちません。なぜなら、どんな大罪を犯しても、母親に信じてもらった人間は必ず天国に行くという昔からの言い伝えがあるからです。母は私の小説は間違っていないと信じてくれました。母は私の太陽です。母が私を信じてくれたから、必ず私は天国に行きます」
 
 「致知」二〇〇〇年五月号より