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課題集 黄シオン の山

○自由な題名 / 池新
○服 / 池新


★地球の両端で(感) / 池新
 西尾=地球の両端でモンゴルの支配を受けず、約千年間閉鎖された空間の中で古代文明から自己形成の原理を継承しつつ、統一体としての自己形成を長年かけて徐々に達成したのが日本文明とヨーロッパ文明である、と思うのです。このように見ると、日本とヨーロッパは力学的構造的に確かに似ている。だが、一番大切なのは似ているということではなく、実は似ているが完全に違うということにあると思うのです。
 長谷川=その違いを確認するのにも、日欧同時並立の枠組みは非常に役立ちますね。ヨーロッパも日本も共に古代文明を引き継ぐものとしての地位にあるという点では共通している。ただし、その継承の仕方をそれぞれの領域できめ細かく跡付けてみると、ヨーロッパ人自身はギリシャ人の末裔でもローマ人の末裔でもないのに、ギリシャ・ローマの継承者を任じています。これはヨーロッパ人がいかに無抵抗に古代文明をそのまま引き継いだか、ということでもあると思うのです。
 ところが、日本人は違う。例えば、中国の文字である漢字にしても、漢字仮名交じり文に消化して、中国語からはきっぱり距離を置いて引き継いでいる。律令の取り入れ方もそうだし、西尾先生がこの本で書いていらっしゃって大変おもしろかったのですが、住居も外側は中国風だが、内側を見ると椅子ではなく畳にお座りするという日本の生活に消化している。あらゆることをただストレートには信奉しない。ヨーロッパに比べて日本ははるかに自主独立の精神を保って、古代文明に接しています。
 西尾=そこを日本人はずうっと誤解しているのです。日本人ほど自分のありようの起源がわからないと思っている国民はないし、自分の起源を主張しない国民もない。自分本来のものは何もなくて、全部外からやって来て、それらの借り物を身につけ、いまの自分があると思っている。そういう議論がしきりになされている。だが、日本人ぐらい外から来たものと自分本来のものを区別し、意識し続けている民族は珍しいのですよ。それはヨーロッパと比較すると、よりはっきりする。
 ヨーロッパ人にとっては、ギリシャ文化もローマ法もキリスト教も、何から何まで全部外から来たものです。自分固有のものは持っていない。にもかかわらず、それら全部が自分のもののような顔をしている。
 ヨーロッパでギリシャ・ローマが自覚されるのは、千年後なのです。千年間忘れ去られて、地中海文明の存在すら気づかず、アリストテレスが復活するのは十五世紀になってからです。その間はイスラムに抑えられていて、ギリシャ・ローマは闇の中にあった。それがまるで縄文土器が土の中から掘り起こされるように発見され、ヨーロッパ人はそれを自分本来のものとして喧伝して、いまに至るわけですね。
 長谷川=キリスト教もそうですね。ヨーロッパ人にとっては異教であったはずのものが、彼ら自身の宗教になってしまった。ギリシャ・ローマとキリスト教と、二重に他人の過去を自分のものにしていまのヨーロッパがあるわけです。では、中世の土着のものをどう生かしていくかという発想が現代のヨーロッパ思想にあるかといえば、非常に少ないですね。
 西尾=少ないというより、ないんじゃないでしょうか。それに対してわれわれ日本人は、文字も仏教もそれから儒教も外から来たものであることをいまに至るまで絶えず意識しています。実態はもうごちやごちやになってしまって、実際は自分のものになっている。だから、ヨーロッパのようにこれが自分だと主張すればいいわけです。ところが、日本はその起源を峻別して、自分のところの起源は何もないかのように思い込んでいる。妙といえば妙です。だが、外から来たものであると意識するのは、日本起源のものが確かにあるからなのです。
 長谷川=日本人は、あれも外来、これも外来と意識している。だが、そういう意識が成り立つのは、外来とは違う何かがあるからこそなのですね。漢字文化でもない、仏教文化でもない何かが、日本本来のものとしてある。ただ、その何かがなかなか見えない。
 西尾=何かに無自覚、無意識であるから見えてこないのです。では、何かとは何か。それは、外から来たものを取り込む知恵における主体性である、というのが私の主張です。具体的に縄文と言ってしまっていいのかもしれないが、それではあまりにも単純化しすぎる。しかし、何でも取り入れる豊かな貯水池のような、懐が深く広い、他者を他者とも意識しないで自他共に混交させてしまう包容力のある、どうも適切な比喩が浮かんでこないが、例えばタンクのようなものを背負っている歴史。それが日本の歴史であることを知らなければなりません。その大きなタンクが日本を動かしてきたのだというふうに考えないと、日本の歴史は解けない。そのタンクこそが、外から来たものを何でも取り込む知恵に対する主体性と私が呼ぶものなのです。
 
 「致知」二〇〇〇年五月号より