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課題集 黄シオン の山

○自由な題名 / 池新
○ゴミ / 池新


★自分の手で近代化を(感) / 池新
 そうですね。明治維新という自分の手で近代化を成し遂げた歴史を持っているというありがたさです。近代化運動は日本だけではなく、中国でもあった。だが、失敗している。
 渡部=近代化運動というのは、それだけでは反発があって、成就するには障害が多すぎるのですね。復古運動と近代化運動というパラドックスが成り立たないと難しい。シナでも近代化を念頭に置いた革新運動がないではなかった。だが、シナの歴史は易姓革命ですからね。漢があって元があって明があって清があるという具合に、王朝が交代し歴史が断絶している。だから、復古といっても、どこに復古するのかで利害がぶつかるし、意志の統一が難しい。とくに当時のシナ人が「愛国」と言っても王朝は満州族という矛盾があった。
 その点、日本には王朝は一つしかない。しかもその王朝は権威だけで、長い間権力から遠ざかっていたから、どこからも恨まれていない。王政復古と言えば明快だし、そこに意志がスムーズに統一される。万世一系の王朝をいただく歴史を日本は持っていた。岡崎さんのおっしゃるように、歴史のありがたさを感じないわけにはいきません。
 岡崎=また、こういうことも考えます。明治維新には、いくつかの節目があったが、そこで選択を誤らない目を持った人物がいたということです。例えば、ロシアに対馬をとられる危険があった。また、北海道を質に入れれば、ロシアは幕府に金を貸してくれた。江戸開城後、膨大な幕臣を抱えて、幕府は喉から手が出るほど金が欲しかったでしょう。だが、そこにある危険性を見抜いて、勝海舟はきっぱりと断っている。また、幕府にはフランスからの援助の申し出もあった。これも勝海舟は断っている。見識ですね。また、薩長にはイギリスが援助を申し出ていたが、これは西郷隆盛が断っている。これらの一つでも受け入れていたら、明治維新はどう転んでいたかわかりませんよ。
 これらの見識ある人物を育む土壌が、日本にはあったということでしょう。明治維新に至るまでの江戸時代には高い教育水準があったし、成熟した文化があった。例えば、ペリーの黒船が来るが早いか、漢文からですが、欧米世界の事情を紹介した翻訳本が次々と出ている。そして、そのほぼ十年後には福沢諭吉の「西洋事情」が刊行され、ベストセラーになっている。
 渡部=それを読みこなす高い識字率という背景を考えなければなりませんね。
 岡崎=また、こういうことも考えます。革命には革命のダイナミックスがあります。ロシア革命ではケレンスキーの臨時政府が立憲君主制を模索するが、そこで止まらず、レーニンの暴力革命までいってしまう。フランス革命でもミラボーの立憲王制では収まらず、国王がギロチンにかかるところまでいく。明治維新にもそのダイナミズムは働いていた。坂本龍馬の船中八策などで公武合体でまとまるはずだった。そうなれば、藩主たちの列侯会議が政治を掌握し、徳川将軍はその議長ということになる。大政奉還しても、実質は変わらない。ところが、版籍奉還、廃藩置県までいってしまった。革命というのはそこで大きな流血の様相を呈するのが世界史の通例だが、明治維新ではそこですんなりまとまってしまった。
 渡部=版籍奉還をやったのは西郷隆盛です。武士が武士階級を否定した。革命の主体が自分が属する階級を否定する。こういうのは世界史に例がありません。それができたのは、西郷という人物の力ですね。西郷がやることなら、とだれもが納得する、納得させてしまう力が西郷にはあったのですね。そういう偉大な人物とクロスするところに明治維新があったわけです。一つの王朝が連綿とする歴史のありがたさとともに、そういう人物を生み出した日本の文明的土壌を考えなければなりません。
 
 「致知」二〇〇〇年三月号より