昨日463 今日8 合計154349
課題集 黄セリ の山

○自由な題名 / 池新
○ひなまつり / 池新

○「広告は」を読んで(感) / 池新
★ジョン・メイナード・ケインズが(感) / 池新
 ジョン・メイナード・ケインズが、経済学者としてだけでなく、投機家としても大成功をおさめたことはよく知られている。(じぶん自身の資産を築いただけでなく、財務担当理事(Bursar)として資産管理をまかされたケンブリッジ大学のキングス・カレッジの資産をも大幅に殖やしたのである。)そのケインズが、じぶんの経済理論のなかで投機活動について論ずるさいにモデルとしたのは、当時のイギリスやアメリカにおける発達した株式市場や債券市場である。そして、それは、投機家がたんに生産者から買い消費者に売っているような牧歌的な市場ではなく、ケインズ自身のような専門的な投機家が多数参加し、短期的な利益をもとめておたがい同士で売り買いをする、言葉の真の意味での「投機的市場」である。
 それでは、このような市場において、投機家が合理的ならば、いったいどのような行動をとるだろうか。もちろん、あの「美人コンテスト」で賞金をかせごうとしている読者のように行動するはずである。すなわち、ここで合理的な投機家にとって重要なのは、将来モノ不足になるかモノ余りになるかを自分がどう予想するかではない。自分と同じように市場を眺め、自分と同じように合理的に思考するほかの投機家が、将来モノ不足になると予想しているのかモノ余りになると予想しているのかを予想し、それに先駆けて売り買いすることに全知全能を集中することなのである。それはまさに「知力の闘い」である。そして、それぞれの投機家がおたがいの合理性を信じていればいるほど、さらに高段階の予想の予想……の予想をしていく必要がうまれてくることになる。すなわち、多数の専門的な投機家が、たんに生産者と消費者のあいだを仲介するだけでなくおたがい同士で売り買いをしはじめると、市場はまさにケインズの「美人コンテスト」の場に変貌してしまうのである。そして、そこで成立する価格は、実際のモノの過不足の状態から無限級数的に乖離する傾向をしめし、究極的には、たんにすべての投機家がそれを市場価格として予想しているからそれが市場価格として成立するというだけになってしまう。それはまさに「予想の無限の連鎖」のみによって支えられてしまうことになる。そのとき、市場価格は実体的な錨を失い、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに突然乱高下をはじめてしまう可能性をもってしまうのである。
 ここで強調しておかなければならない。このような市場価格の乱高下は、ミルトン・フリードマンが主張するような投機家の非合理性によるのではない。いや逆に、ここでは、投機家の合理性が、ミルトン・フリードマンが想定したよりもさらに高次のものとして想定され、投機家の合理性がなにを市場にもたらすかが、ミルトン・フリードマンが思考したよりもはるかに徹底して思考されている。投機家同士が売り買いする市場のなかで、投機家同士がおたがいの行動を何重にも予想しあう結果として、市場の価格が乱高下してしまうのである。個人の合理性の追求が社会全体の非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここにある。そして、実際に市場で価格が乱高下しはじめると、今度は消費や生産といった実体経済が撹乱され、経済全体におおいなる不安定性をもたらすことになってしまうのである。
 ここに、同じく市場をあつかいながらもそして同じく人間の利己性と合理性とを仮定しながらも、アダム・スミスと真っ向から対立する理論が提示されたことになる。それは、たとえ非合理的な慣習や制度がなくてもたとえ恣意的な政府の介入や規制がなくても、市場には本来的に不安定性がつきまとうことを主張する理論である。いや、それはグローバル化による市場の拡大によって、非合理的な慣習や制度が一掃されたり、政府の恣意的な介入や規制が撤廃されたりすることによって、ひとびとが投機活動をおこなう自由が拡大すればするほど、市場はますます「美人コンテスト」の場となり、不安定性が逆に増大してしまう可能性があることを主張する理論なのである。
 しかも、投機は市場から切り離すことはできない。
 
 「二十一世紀の資本主義論」(岩井克人)より