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課題集 黄セリ の山

★お金とは(感)/ 池新
 お金とは、関心のあるもののほうに流れていくものである――。
 これが、長年国際金融の世界で仕事をしてきて、私が得た確信である。お金は必ず、人間の関心が集中するところへ流れていく。
 適切なたとえかどうかわからないが、先頃、日本人宇宙飛行士の毛利衛さんが、二度目の宇宙飛行から帰還したというニュースが流された。なぜこの出来事がニュースとしてのバリューを持ちえたかといえば、それは毛利さんの宇宙飛行に関心が集まるからである。報道機関は、これはニュースになると考えて毛利さんをこぞって取り上げたわけだが、これは人々の関心が集まるという予測にもとづいた行為である。
 お金も、このニュースのネタのセレクトと同じメカニズムによって動いていく。人々の関心の集まるほうへ集まるほうへと、お金は流れる。
 宇宙飛行がどれほど偉大なことであるか、私にはわからない。同じように、JR山手線の運転手を務めることがどれほど偉大なことであるかもわからない。しかし――山手線の運転手さんには悪いが――人々の関心が山手線の運転手さんに集中することは滅多にないだろう。つまり、こちらはニュースにならない。
 毛利さんには宇宙から見た地球の眺めを聞いてみたいと思うが、山手線の運転手さんに、運転席から見た上野の桜の眺めを聞いてみたいという人は、おそらくほとんどいない。しかし、電車がはじめて走ったころには、運転席からの上野の桜の眺めに、世の中の関心が集まったであろうことは想像に難くない。
 お金は、この例同様に、関心の集まらないところには決して流れない。
 これを念頭に日本の戦後経済の流れを追ってみると、どんなことが言えるだろうか――。
 まず、戦後間もなくの日本は、ともかく〃資本〃の少ない国だった。お金を借りようにも担保になるものがないから、土地が担保にされた。土地という文字通りの不動産を担保にして、資金を借り入れた企業は、ともかくモノをつくった。なぜなら、日本中がモノ不足だったからである。
 モノがまったくなかった。だからこそ、人々の関心はモノに集中したのである。(中略)
 むろん、これからもいろいろな新しい商品が生み出されてくるだろう。しかし、もし仮に、いま以上に便利な画期的な機能を持った機械が発明されるとすれば、それはもはや、人間を一歩も歩かせないような機械となるだろう。SF映画に出てくるような、人間が一日中座ったままでも、すべてのことを代行してくれるような機械である。
 ところが、人間も動物である。動物である以上、動かなくては死んでしまう。すでにパソコンの普及によって、人間はほとんど机の前から動かなくなったが、これ以上動かなくなることは、おそらく人間の生理が拒否するだろう。
 つまり、モノづくり産業において、もはや革命的な商品の誕生はありえないのである。世界中に爆発的に普及するような新製品の誕生はありえない。
 したがって、モノづくり産業が、これから飛躍的に成長するということはもうない。
 飛躍的な成長はもうないが、しかし一方でモノづくり産業がなくなることもない。ありとあらゆる電気製品が各家庭に普及しても、それらはいずれは壊れてしまう。買い替えが必要である。あるいは家電でなくとも、あらゆるモノ、道路でもビルでも飛行機でも自動車でも、ともかくあらゆるモノは、いつか壊れる。壊れれば、買い替えや修理が必要である。
 つまり、モノづくり産業は、今後、買い替え需要に応じ、修繕に応じることで生き延びていく産業になるだろう。私は、こうした産業のあり方を〃メンテナンス産業〃と呼んでいる。
 あらゆるモノづくり産業は、今後、メンテナンス産業となり、拡大はしないがさりとて消えてなくなることもないという存在の仕方を、否応なく強いられていくのである。
 
 「サイバー資本主義」(増田俊夫)より