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課題集 黄セリ の山

○自由な題名 / 池新
○節分、マラソン / 池新

○「むかしの僕は」を読んで(感) / 池新
★これまでは、ある人が(感) / 池新
 これまでは、ある人が自分の夢を達成しようとすれば、巨万の富を築くか、さもなければピラミッドの頂点に上り詰める必要があった。最初から恵まれた境遇にある一部の人は別にして、どちらの場合も、夢の実現に漕ぎ着けるのは、容易なことではなかった。
 お金を貯めるには、人のいやがることもやらなければならない。ピラミット型の組織の頂点に立つには、人一倍の努力と人一倍の忍耐が必要だった。
 しかし、インターネットは、情報のベクトルを垂直方向からアトランダムなものに変えてしまうことによって、夢の実現を、お金の制約や、組織の制約から解き放ってしまったのである。
 先ほど述べたように、これまで情報は、ピラミッド型の組織が権力によって上へ上へと吸い上げる性質のものであった。そして、ピラミッドの底辺にいる者は、上位にいる者から情報を秘密裡に流してもらったり出世することにより、利益や便益を得てきた。当然その〃お礼〃も十分にしてきた。官公庁で起こる汚職の構造をみればこの間の事情は明白である。官僚はこれまで、実質的に日本というピラミッド構造の頂点に立つ存在だった。官僚は権力によって、世界中からさまざまな情報を収集して、それをストックしてきた。この情報をベースにして各種の法案や政策が決定されていく以上、官僚の握っている情報は民間にとって、まさに宝の山だった。そこで民間はワイロまで贈って、官僚から情報を得ようとしてきたのである。
 こうした汚職のあり方に象徴されるように、ピラミッド構造のなかの情報の流れは、必ずギブ・アンド・テイクの関係をベースにしている。情報を得ること、情報を与えることによって、双方がなんらかのべネフィットを得る。それがなければ、ピラミッド構造は維持できないし、情報も流れない。
 つまり、ピラミッド構造のなかで情報が流れるためのエネルギーは、「利益」あるいは「損得」から汲み上げられていたのである。これは、どんな組織においても、根本的には同じである。逆に言えば情報を流すことが損であれば、情報は隠蔽されてきたのである。これは例を引くまでもないことだろう。
 ところが、インターネット上を流れる情報は、そのエネルギー源に決定的な違いがある。
 インターネットは、あくまでも自由なサイバー空間である。そこには規制もなければ強制もない。インターネットに接続する者は、誰からも強制されることなく接続し、そこでどのような情報に出合うも出合わないも、まったくその人次第である。
 つまり、インターネットにおける情報交換は、完全に自発的に行われているのである。そして、この自発的な情報交換が、いったい何をエネルギーとして行われているのかといえば、それは〃喜び〃である。〃知る喜び〃と〃知られる喜び〃である。
 デカルトは、「我思う故に我あり」と言ったが、たしかに哲学的思考のうえでは、我が思うが故に我が存在したのかもしれない。「思う」のは個々人の自由だから、人間は牢屋に閉じ込められていても、自由に「思う」ことを止めない限り、自由と言えるのかもしれない。
 しかし、現実はどうだろうか――。
 モノづくりを基礎に据えた資本主義の社会には、どれほど奴隷的な労働が多かったことだろう。朝から晩まで同じ部品のネジを締め続けるような退屈極まりない仕事に、どれだけ多くの人が人生を費やしてきたことだろうか。もちろん、そうした労働に従事する人々全員が自分を奴隷とは思わないだろうし、さまざまな制約のなかでも精神的な自由を保ちえた人もいただろう。
 しかし、自分の創造性や発想、意見、考え方などを一切求められることなく、機械のように働くことを強要されるのは、多くの人にとって、やはり苦痛ではなかったろうか。そして、その苦痛とは奴隷の味わう苦痛に、極めて近いものではなかったろうか。
 これは、モノづくりを中心にしてきたこれまでの資本主義の陰の部分であると私は思う。工業デザインを駆使した、かわいらしく、しかも高性能な家電製品が並ぶショーウィンドウが古い資本主義の光の部分だとすれば、そうした商品をつくるために費やされた膨大な量の単純労働と労働者の溜め息が、陰の部分なのである。
 しかし、インターネットの上では、社会的にどんな地位の人でもまったく自由に情報を提供し、情報を取得することができる。これまでは会社の役員しか握れなかった情報を、一平社員でも握ることができる。
 つまり、インターネットは、単に組織としてのピラミッド構造を解体するだけでなく、人間の上下関係、社会的地位といったピラミッド構造を支えている根元をも解体してしまうのである。インターネットの上で、人間は、というよりも人類は、はじめて完全なる「個人」という存在になりうるのではないかと私は思う。
 そして、個人であることの喜びにあふれた人間同士が、情報を交換しあい、情報を結合しあうことで新たな価値を生んでいくのである。それは、会社組織とも無縁、まして国家などとはなんの関係もない、文字通り、サイバー空間における自由な出会いであり、価値の創造である。
 サイバー資本主義時代とは、かつての大航海時代にも匹敵するような、偉大な時代の始まりだと私は考えている。個人が本当の意味で個人になることのできる時代。それがサイバー資本主義の時代なのである。
 そして、大航海時代が新大陸の発見に結びついたように、インターネットは、まぎれもなく個人を〃発見〃したのである。
 
 「サイバー資本主義」(増田俊夫)より