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課題集 黄サツキ の山

○自由な題名 / 池新
○家、自己主張の大切さ / 池新


★アメリカはキリスト教文化の(感) / 池新
 アメリカはキリスト教文化の国なので、「神」と「キリスト」と「聖霊」と「個人」との関係のなかで「個」が確立されるが、日本人は仏教に基づいて、自己の悟りのなかで「個」が確立される。アメリカで個人に対するのは「三位一体(神、キリスト、聖霊)」である。
 そして、アメリカ人は自分の利益を中心に考えるので非常に「対立的」であり、日本人は自然(自己)に融和しようとするため非常に「協調的」である。
 日本という国は山であり、日本人は山に生える植物であり、山に棲む鳥である。私は長い間アメリカに住んでいたが、日本という山に帰ってきた。植物や動物たちは、お互い住みやすいようにテリトリーをつくって、そしてお互い共生している。
 これに対してアメリカという国は、運動会の会場のようなものである。走りやすいように国家が線を引いたり、審判をしたり、進行役を務めたりして、国民はそのなかで徒競走をしたり、マラソンをしたり、綱引きをしたりしている。一番の人は億万長者、ビリの人はダンボールで寝ることになる。ただし、誰にでもエントリーの自由は保障されている。
 共生という意味でいえば、日本人は文化的にもさまざまな国の文化を認めることができる民族である。残念なことに、一時期鎖国という長い歴史によって、受け入れにくくなってしまったときもあったが、基本的にはなんでも受け入れることができる。
 それは、日本にさまざまな国のレストランがあるということを見てもわかることである。日本では八〇カ国以上の民族料理を食べることができるといわれているが、それだけ多くの国のレストランがあって、ちゃんと商売になっている国というのは、世界中で日本だけである。他民族の文化をお金を払って受け入れる。料理という、もっとも文化的特徴が表われるものを、日本人はなんの抵抗もなく受け入れている。
 これは、とても特殊なことである。日本人が、異なる価値観をもつ文化を理解することができ、容易に受け入れることができるという何よりの証拠である。どうも欧米人は、このように他の文化をなんでも受け入れるということはできないようである。欧米人のものの考え方は、キリスト教文化に基づいている。長い歴史のなかでこの価値観がしみついてしまっている。キリスト教の教えは「博愛主義」だが、どうやらこれは絶対的博愛主義を意味しているものではないようである。
 たとえば、一三世紀には十字軍というものがあった。聖地奪還という旗印のもと、異教徒を滅ぼし、それだけでは足らずに、侵略して他民族の領土を占領した。そこには、キリスト教を広め、それ以外の宗教は排してしまおうという、非常に排他的な姿があった。これは今日も変わらない。
 その宗教が説く教えが、「神の愛」である。しかし、愛の精神を広めるために、多くの人の命を奪い、自分と同じ考えでない者はすべて抹殺する。
 まさに、侵略の宗教である。
 これは、本項のはじめで述べた「コンフリクト・オブ・インタレスト」という原則に帰結する。天国と地獄、神と悪魔、善人と対立関係を明確にし、悪は滅ぼさなければならない。戦って勝つことが正義であるという考え方に行きつく。
 日本には日本の文化があり、日本人にとっての美徳というものがある。
 たとえば「石の上にも三年」という言葉がある。
 一生懸命努力してものを作り、そうすることによって、そのもの自体に丹精を込めて作ったという精神的付加価値が備わることになる。そうやって作ったものが尊ばれる。
 すなわち、物質的な面よりも精神的な面において美徳を感じるのである。
 物質的面については便利さ、安さ、軽さ、見た目のよさといった価値観があるが、それに優る精神的な面を非常に重視するという哲学を日本人は持ち合わせている。
 これこそ日本人の素晴らしいところであり、これからも大事にしていかなければならない考え方である。
 一方欧米人の「コンフリクト・オブ・インタレスト」の哲学は、資本主義の哲学と共通している。資本主義の哲学、原則については後に詳しく述べるが、ひと言でいうと、「最小の労力で、最短時間に、最大の利益をあげること」である。
 したがって、丹精込めるとか、心を込めて作るという価値観は、資本主義の哲学と大きく矛盾することになる。

 「おカネがお金を産む時代」(増田俊男)