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課題集 黄サツキ の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新


★躾は、中、高等学校においても(感) / 池新
 躾は、中、高等学校においても心掛けねばならぬ問題である。しかし、躾には「適時性」がある。基本的な躾は、まず何よりも小学校においてなされなければならない。躾や教育の本質については、本書の別の部分で詳しく述べるが、過度の体罰禁止の風潮が、小学校教師から、厳しくしつけるという士気を粗相させている嫌いはないであろうか。「子供をぶってはいけない」などと簡単に言うが、私は、幾つの子供をぶってはいけないのか反論したい。幼児はどうか、小学校の一年生はどうか、中学生はどうか。どんな体罰肯定論者でも、大学生を殴ってよいなどとは考えまい。体罰禁止も、その発達段階を離れて論じてはならないと私は思うのである。
 小学生も、できるだけぶったりしないで育てなければならない。しかし、いくら言って聞かせても素直に分かろうとしない場合、あるいは、明らかに反抗的な姿勢を示す場合は、少しくらいぶってもよいと私は考えている。
 転勤直後に、荒れている六年生の学級の担任を命ぜられたことがあった。ボス的な生徒がはびこり、相当数の集団が跳梁跋扈している学級である。クラスの生徒は、教師よりこのボスの言動を恐れているのだから、授業などできたものではない。私は、彼が正しくないことがあまりにも明白であり、私が正しいことが圧倒的に明らかであった場面で、彼を大喝するとともに一発横面をひっぱたいた。もし彼が、更に反抗を続けるならば、何発でも殴り続けるという姿勢を示しつつ、彼の非を諭した。一挙に彼はボスの座を滑り落ち、ボス集団は解消した。
 その後彼のために、私が特段の心遣いをしたことは言うまでもないが、驚いたことに他の生徒達は、その事件をきっかけに私に極めて深い信頼を寄せ、クラスには明るく和やかな雰囲気が保たれたのである。その日からボス自身も私を深く信頼するようになった。私は、小学校の教師はまず何よりも強い存在でなければならないことを痛感したのである。
 私は決して子供を叱りすぎる教師ではなかったと思うが、それでも、年に一度か二度くらいは、我がままな生徒の頬をぶつことがあった。それが、当該の子供をも、クラス全体の子供をも、傷つけたとは決して思わない。ぶったかぶたないかは、小学生の場合、それほど大騒ぎするような問題ではない。安手の「体罰絶対禁止論」で騒ぎ立てるような問題ではないと思うのである。
 インドで狼に育てられた少女が見つかり救出されたことは既に述べた。彼女は、皿のスープを飲むとき、犬や猫のように皿の前に「前足」を揃えて座り、びちゃびちゃとスープを舐めた。彼女に人間らしいスタイルでスープを飲むようにしつけるのは大変であった。しかし、この少女の心に、人間らしい心が芽生えたのは、彼女が人間らしいマナーで生活行動することができるようになった時期とぴったりと重なったと言う。
 最近は、挨拶一つにしても、「先生に必ず挨拶しなさい」と言うのではなく、まず先生や年長者を尊敬する心を育てなければならない。尊敬する気持ちが生まれてきたら、子供は「ひとりでに」挨拶するようになるのである。それなのに、尊敬する気持ちが育ってもいないうちから、無理矢理挨拶せよと言うのは、押しつけでしかない。というような考えが支配的である。かくして、我が国では、挨拶する習慣がすっかり衰えてしまったのである。そして、形ばかりでなく、他人を尊敬したり思いやったりする気持ちさえ衰えてしまったのではないだろうか。
 服装をきちんとすれば、心も引き締まる。挨拶を正しく交わす生活を繰り返していれば、自然と他人の心を理解することができるようになる。心から入って形に及ぶということも極めて大切だが、形から入って心に及ぶことの大切さが最近は見落とされているのではないだろうか。幼稚園や小学校の場合、特にこの形から入ることが大切である。高等学校においてすら、挨拶の大切さを強調するだけでは効果が上がらない。むしろはっきりと、「仲間や教師には挨拶せよ」と命じ、それを習慣化させることが大切だと思われるのである。
 小学生に、このような形式を身につけさせようとする場合、無条件にこれにしたがうことを要求しなくてはならぬ。彼らに人類共通の文化を定着させるには、その意見などを求めてはならない。問題やケースにもよるのだが、基本的には、「君どう思う」ではなく、「こうしなさい」と教えなくてはならない。そして、それらの基本的文化が定着していった上で、彼らに、人間としての思考や感性、批判力が育ってくるのである。それなしに、「君どう思う」などと問いかけることは意味のないことであり、無い物ねだりにほかならない。

 「学校崩壊なんかさせるか!」(小川義男)