昨日795 今日764 合計157380
課題集 黄ヌルデ の山

○自由な題名 / 池新
○ペット / 池新

○「環境サミットとか」を読んで / 池新
★私の属する女性の会に(感) / 池新
 私の属する女性の会に「オリーブの会」と称する文化サークルがある。毎月例会を持つのだが、昨年(一九八三年)十一月には、
 山田太一氏の脚本による「車輪の一歩」という映画を鑑賞した。映画が終って電灯が点いた時、誰もが目と鼻を赤くしていた。感動的な映画であった。
 映画は、車椅子の青年男女たちを描いたドラマであった。そこには身体障害者たちの切実な叫びがあった。ストーリーを詳しく紹介する紙数がないが一部に触れてみたい。斉藤とも子が演ずる車椅子の少女は年中家の中に閉じこもっている。同じ年頃の少女たちは、喜々として街の中を闊歩しているというのに、彼女は来る日も来る日も孤独の中に生きている。ある日、文通をしていた車椅子の青年が、その少女を訪ねてやって来る。だが、彼女に会うことは出来ない。そこで初めて彼女の暗い孤独な生活を知る。若者は、少女を家に閉じこめて置く母親と、その母親の言いなりになっている少女に幾度も幾度も説得をくり返す。彼の友だちもやって来る。そして遂に、少女を近くの小公園につれ出すことに成功した。
 彼女は、仲間たちと楽しいひと時を持った。その小さな公園で明るい日射しを浴びる彼女の笑顔も明るかった。が、彼女は、その帰途、車椅子の上で尿を洩らしてしまう。ひとすじの液体がその足をぬらすシーンは、私たちの胸を噛んだ。彼女たちの使える共同便所はどこにもなかったのである。
 彼女の母が彼女を外に出さなかったのはなぜか。それは外に出る度に、不快な目に遭わなかったことはなかったからである。世の中は、車椅子の人が歩くには、余りにも障害が多過ぎた。共同便所だけではない。先ず家から外に出るのに、出口に幾段かの階段があった。ここで先ず彼女は健常者の助けを必要としなければならない。どの建物も似たりよったりで階段があり、乗り物に乗るにも困難がある。その度に人手を借りねばならない。母親一人では、地下鉄の階段など下ろしてやれるわけはない。どこにこの母子に快く協力する者がいるだろうか。だからこの母親は、人々の冷たい視線からわが子を守るために、家の中に閉じこめておくのだった。
 この映画の中で、「迷惑」という言葉が出てくる。
「迷惑をかければいいじゃないか」
と、アドバイスしてくれる健常者も出てくる。いろいろないきさつのあと、少女はたった一人で、高い階段の下に行き、道行く人に勇気をふるって叫ぶのだ。
「誰かわたしを、あの上までつれて行ってください」
 幾人かが知らぬ顔をして行き過ぎる。母親はそのわが子を物陰からはらはらしながら見ている。今までは、「迷惑をかけてはならない」という理念によって、身障者たちは誰もが肩をちぢめて生きてきた。が、その言葉はおかしいと気づいた健常者がその過酷さを跳ね返すように勧めたのだ。遂に彼女の願いに応えて、十幾段かの階段を上まで運んでくれる人間に会うことが出来た。幾度も幾度も自分の声を無視されながら、助けを求めるその車椅子の少女の姿は、実に感動的であった。映画はここで終った。が、私の胸の中に、
(迷惑とは何か、迷惑とは何か)
という声が消えなかった。
 (「北海道新聞社」『ナナカマドの街から』三浦綾子)