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課題集 黄ヌルデ の山

○自由な題名 / 池新
○学校 / 池新

○「後世から」を読んで / 池新
★『もののけ姫』に代表される(感) / 池新
 『もののけ姫』に代表される現代のユニバーサルな常識的自然観では、自然と人間を次のように矛盾にみちた対立的存在とみる。
 ヒトの力がおよばない自然は、神々しくも調和のとれた自然、シシ神が秩序の象徴として君臨する自然である。しかし人間が豊かな生活を築くためには、聖域ともいうべき原生的な自然、神々の原生林を破壊せざるをえない。
 そのための人間と自然とのあいだには、決して解消することのない矛盾が存在する。なぜなら、人間にとっての自然とは、戦いを挑んで征服すべき対象でしかないからである。エボシ御前がシシ神の首を射落とすように、豊かな人間の生活のためには原生的な自然は開発されなければならないのである。
 一方の自然は、開発というヒトが仕掛ける戦いに対して、時として巨大な懲罰的な力で対抗する。それは、報復にもみたてることができる。原生的自然は荒ぶる神々の住む場所であり、開発に対する自然の側からの報復は、恐ろしいタタリ神の姿をとることになる。
 以上のような自然観にたてば、当然のことながら、自然の側に棲むサンと人間のアシタカは、同じ場所でともに暮らすことはできない。「荒ぶる神々である自然と人間との戦いには、決してハッピーエンドはありえない」というわけである。
 そうした「常識」は、今ではあまりにも広く、そして深く人々の心を支配しているようである。かならずしも現実を適切にとらえる視点を提供するとはかぎらなくとも、誰にでもわかりやすい説明が常識となるからである。人は、あまりに複雑で理解しがたいものが意識されると落ち着かなくなる。単純化したわかりやすい見方や説明があたえられ、それで理解したつもりになれば落ち着ける。だからこそ、『もののけ姫』に代表される自然観は、その単純明快さゆえに広く人々の心をとらえているのであろう。
 しかし、それは結局、人々に「人か自然か」といった二者択一を迫ることにしかならないのではないだろうか。むしろ、「しょせん自然を破壊しなければ人の生活はなりたたない」というあきらめに陥らせる危険性がはるかに大きく、やがては、自然破壊を正当化するメカニズムの中にくみこまれる可能性すらあるのではないだろうか。
 おそらく日本における伝統的な自然観は、自然と人間をそのように対立させるものではなかったと思われる。それはむしろ、昭和初期を舞台にした『となりのトトロ』の世界のように、「人と自然」が同じ空間を共有し、ともに育ち、生かしあうことを当然とするものであったのではないかと思う。
 つい数十年前まで、この日本列島に普通に存在していた里山は、森あり草原あり水辺ありの多様な場であり、人がそこから生活と生産に必要な資源を調達する場であると同時に、生き物の賑わいにみちた、人と自然がともに生きる場でもあったのだから。
 (「生態系を蘇らせる」NHKBOOKS・鷲谷いづみ著)