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課題集 黄ヌルデ の山

○自由な題名 / 池新
○服 / 池新


★しばしば言われるように(感) / 池新
 しばしば言われるように、民主主義が暴力を否定する制度であるということも皆さんご存じのとおりであります。私もこれはたいへん大切なことだと思います。暴力はどうみても、よいことではありません。暴力は否定しなければならない。しかし、暴力さえ否定されれば、そのあとは何でもいいということになるかといえば、私は決してそうではないと考える。たとえば、暴力を否定したうえで話し合いをするというのなら、たいへん結構なのですが、暴力は否定するけれども、お互いに相手を言いくるめようとし、それで事を決めようとするならば、どうでしょうか。これは言論の暴力です。これでは、私は、健全な社会生活というものは維持されえないし、伸ばしていくこともてきないだろうと思います。
 固苦しい表現をさけて、身近な例によりながら少しこのことを考えてみましょう。私ども日本人のなかには、何かそういう言いくるめをひじょうに嫌う性格というか、そういう潔癖なところがあるように思います。たとえば、夏日漱石の『坊っちゃん』に出てくる山あらしと赤シャツという二つの性格の対照と、その対決の仕方を考えてくださるとよく分かるのではないでしょうか。あの小説の終りのところで、山あらしと坊っちゃんが料理屋の近くに待ち伏せていて、いきなり赤シャツとのだいこの二人をぶんなぐりますね。そして、読んでいらっしゃる皆さんは、胸がすーっとするだろうと思います。あれは、客観的には、明らかになぐった方の敗北だと思います。が、しかし、なにか心のなかがすーっとするように感ずる、そういう感覚が少なくとも日本人にはあるように思うんです。なにかそこには言いくるめ、ロ先でごまかしていくやり方、そういう精神態度を忌み嫌う潔癖さが現われていますね。これは確かに捨てがたい美点だとは思います。けれども、それにもかかわらず、やはりなぐった方が負けであることに変わりはありません。なぐった者に快哉を送ってだけいるようでは、少なくとも民主主義は成り立たないでしょう。しかし、そうかといって、山あらしの暴力がいけないということが、すぐさま逆に赤シャツの言いくるめがよいということにならないことも確かです。端的にいって、本当に暴力がいけないというのであるならば、同時にこの言いくるめの精神をも徹底的に憎み、否定してしまうというのでなければ、真の暴力の否定にはなりえない、と私は考えるのであります。もしも、この言いくるめの精神が堂々と通用する、国民の運命を決するような大切な時期に、大きな顔をしてまかり通るのなら、これは暴力を誘発するよりほかない。暴力というものに快哉を叫ばせるような素地をまさに作りだしていくんですから、この言いくるめの精神こそ、暴力を育成するもっとも良い温床であると考えるほかはないからであります。
 (「生活の貧しさと心の貧しさ」みすず書房・大塚久雄著)