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課題集 黄ヌルデ の山

○自由な題名 / 池新
○個性 / 池新


★人を信じることは(感) / 池新
 人を信じることは、おろかなお人好しのすることでしょうか。それとも逆に、誰も信じないで「人を見たら泥棒と思え」と思っている人こそ、おろかな人間なのでしょうか。この本はこの問を出発点としています。そして、その答えはわれわれ自身が作り出しているのだという結論にたどり着きます。
 (中略)
 逆説的に聞こえるかもしれませんが、これまでの日本社会は信頼をあまり必要としない社会でした。少なくともアメリカを代表とする欧米社会に比べ、他人を信頼すべきかどうかを考える必要性が小さな社会だったといえるでしょう。この点については後で詳しく議論する予定ですが、これまでの日本社会では、関係の安定性がその中で暮らす人々に「安心」を提供しており、わざわざ相手が信頼できる人間かどうかを考慮する必要が小さかったからです。
 しかし現在では、これまでの日本社会を支えてきた安定した社会関係や人間関係の重要性が急速に小さくなりつつあります。そのため、生活の中で安心していられる場面が急速に減少しています。たとえばこれまでの日本社会であれば、一度大企業に就職してしまえば定年までの雇用がほぼ保証されていました。これからは、そのような保証は昔話になってしまうでしょう。大企業に就職したからといって、安心しているわけにはいきません。
 このように、いつまでも継続することが保証された「コミットメント関係」の中にいることで安心が提供されていたのが日本社会の特徴でしたが、そのような関係の安定性による安心の保証が小さくなるにつれ、これからの日本社会では、われわれの一人一人が、「この場面では相手を信頼してよいのだろうか」ということを考える必要性が大きくなっていくでしょう。
 この変化を少し戯画的にデフォルメして考えてみます。するとこの変化が、山深い小さな村から急に江戸や大阪といった大都会に出てきた農民の直面する状況と対応していることがわかります。自分の生まれ育ったふるさとの小さな山村で暮らしている限り、この農民にとって、「この場面で相手を信頼していいのだろうか」と考える必要はほとんどありません。何十年もの間ほとんど毎日顔を合わせてきた村人たちの誰が信頼できて誰が信頼できない人間であるかは、考えるまでもなく明らかだからです。また、信頼を破るようなひどい行いをしたことがわかれば、村の中で暮らしていけなくなってしまいます。だから、村人たちは周りの人たちに迷惑をかけるような行動を極力つつしむことになります。
 しかし、江戸や大阪といった大都会に出てきたこの農民は、これまで出会ったことのない人たちとつきあっていかなくてはなりません。だまされたりしてひどい目にあっても、誰に相談したらいいのか、お上に訴えたら逆にひどい目にあわされるかどうかなど、どう対応したらよいのかわかりません。そうなると、新しい相手とのつきあいを始めるにあたって、どうしても、「この場面でこの相手を信頼していいのだろうか」と考えざるを得ません。
 現在の日本人、あるいはこれから大人になる日本人の多くは、この農民の場合ほど極端ではありませんが、ある程度同じような状況に直面することになり、信頼が人々の生活の中で大きな意味をもつようになってくるでしょう。そうした時に、日本人が一般に他人を信頼するようになるか、それとも他人に対する不信感を募らせていくかは、今後の日本社会の行方を決定する上できわめて重大な意味をもってくるでしょう。
 もう一度、先の農民の場合を考えてみます。この農民は、「江戸は、生き馬の目を抜くような場所だ」という庄屋の忠告を思い出して、新しい誰かに出会うたびに「人を見たら泥棒と思え」と心の中で唱え続けるかもしれません。そうしていれば、この農民は誰かにだまされてひどい目にあうこともなく、無事に用事を終えて故郷の山村に戻り、そのまま一生を平穏に終えることができるでしょう。
 逆に、誰も彼もが「泥棒」だというかたくなな不信感を捨てて、もう少し積極的に新しく出会う人たちとつきあいを始めるかもしれません。そうすれば、場合によってはだまされて身ぐるみはがされるというような結果も起こるかもしれません。しかし、もしこの農民がすぐれた能力の持ち主であれば、そのことに気づいてくれる相手に出会うことができるかもしれません。そうすれば、故郷の村にとどまっていたのでは思いもつかなかった機会が開かれてくるでしょう。
 これからの日本社会で、人々は、これまでのような外部に対して閉ざされた関係内部で相互協力と安心を追求することでは得られない、新しい機会に直面するようになるでしょう。その際に、日本社会に不信の文化が育っていくことになれば、このような新しい機会をうまく生かして効率的な社会や経済を展開していくための大きな障害になると考えられます。つまり、これからの日本社会の行方を決定するにあたって、信頼の文化が育っていくか不信の文化が育っていくかが重要なのは、それが経済や社会の効率的な運営を可能にするかどうかに大きな影響を及ぼすからです。
 (「安心社会から信頼社会へ」中央公論新社・山岸俊男)