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課題集 黄ヌルデ の山

○自由な題名 / 池新
○ゴミ / 池新


★一体どういうことが起こったか(感) / 池新
 一体どういうことが起こったか。ここを皆さんに聞いていただきたい。ここだけ聞いていただけば、私はもう今日は言うことない。それは、世界各国のジャズが、日本では日本のジャズ、ヨーロッパではヨーロッパのジャズとして自立できたのです。つまり、それまでの日本のジャズというのは、ひたすらアメリカの模倣であったわけです。お前たちの演奏はまるでアメリカ人の演奏のようだというのが、大変な褒め言葉だったんです。これはレコードに残っておりますから、皆さんお聴きください。大体六〇年代終わり近くまで、日本のジャズメンが吹き込んだレコードのレパートリー、演奏曲目は、殆どアメリカの曲なんです。しかもアメリカの有名なジャズメンがやって当たったような、そういう名演レコードに、なるべく近い演奏をやろうとした。本場はアメリカ、日本人はその真似をしている。うまく物真似した奴がよいジャズ・プレイヤーというような風潮があった。だからアメリカの、お前のサキソホンはソニー・ローリンズにそっくりだと言われて喜ぶ、ジョン・コルトレンにそっくりだと言われて喜ぶ、そういうのが大休六〇年代の終わり頃まで続いた現象です。
 (中略)
 それまでの日本のジャズは、ずっとアメリカの模倣に終始してきたと言いましたけれど、それとは別に、何とかして日本のジャズというものを確立しようという運動はずうっと昔から続いてきていたのです。ジャズが渡来した時から、そういう意欲はあった。ところが、じゃあアメリカのジャズと違う日本のジャズというものは一体どういうものだろう。ここでみんなとまどっちゃった。「佐渡おけさ」をジャズふうにやったら、日本のジャズじゃないか、なんていうことを真面目に考えた時代も実際にある。
 皆さんだって困ると思うのですが、例えば、あなたがアジア人の間に一人だけ連れ出されまして、君は日本人だそうだけど、本当に日本人か。その証拠を見せろと言われましたら、どうしますか。素っ裸になって、これがあるから俺は日本人なんだといえる証明をお持ちでしょうか。今の日本人に一番欠けているのがそれだと思うのです。明治開国以来、西洋化の道を日本人は邁進して来た。だからもう日本人は、洋食、和食、そんなことにこだわりなく食べていますし、音楽にしたって世界の音楽を聴くでしょう。かえって日本の音楽のほうを聴いてないぐらい。とにかくそういう具合にして、非常にインターナショナルなマインドを持っている今日の日本人、この今日の日本人が、今日の日本の音楽を作ろうとする場合、一体どうやったら日本人のジャズと言えるものができるんだと、これでみんな迷ってしまったんです。山下の言葉が一発でそれを解決したんです。どんなにやったって最後に残るのは日本人の手癖だ。これでいい。これで何が日本人のジャズかという難問は解決できた。
 だから、渡辺貞夫や日野皓正が吹けば、たとえ外国の素材を使っても、日本人がやっている日本のジャズなんだ、これでいいんじゃないか。何かコロンブスの卵みたいな話になりますけれど、要するに日本のジャズとはどういうものかと、過去数十年間、日本のジャズメンが、苦しみに苦しみ抜いて来た問題が、こうしてあっさりと解決されたのです。
 山下洋輔トリオは、最初ヨーロッパに行った時、大変に驚かれ、二年目、三年目と回を重ねる毎に、あのグループを前座に出したんでは、後のグループが全部つまらなくきこえるから、あれはトリに出せということになっちゃって、どこのフェスティバルでも山下洋輔トリオは最終に出て、フェスティバルを引き締めるという役を受けもつようになりました。だからギャラも高いんです。ヨーロッパで最高のギャラを取る。
 ヨーロッパの連中のフリー・ジャズというのは、ウォーミングアップみたいなところから始まりまして、クライマックスまでに一時間ぐらいかかって、クライマックスにかかったと思ったら終わっちゃって、あんまり面白くない。山下洋輔のジャズというのは、クライマックスから始まってクライマックスで終わるんだから、もう全然素晴らしいんです。「神風ジャズ」とか、「空手ジャズ」とかいろいろいわれましたが(笑)、ヨーロッパのやつはみんなダウンしちゃった。今年のニューボート・ジャズ・フェスティバルに招かれて、初めてアメリカに行きました。その実況録音のレコードが先般出ましたけれど大好評です。こうしてアメリカでも山下洋輔は大変な成功を収めた。
 今、山下洋輔の例しか申し上げませんでしたけれども、現在ではそういう具合にアメリカ人はアメリカ人のジャズ。アメリカ人のジャズの中でも黒人のジャズ、白人のジャス、これははっきり違う。それから日本人は日本人のジャズ、ヨーロッパ人はヨーロッパ人のジャズ、という具合に、それぞれのナショナリズムを確立して来たのが七〇年代におけるジャズの新しい様相でございます。
 そうなると、例えば日本人は日本人だけでかたまって、他の共演を許さないようなものを作り上げるかというとそうじゃない。七〇年代のもう一つ大きな動きは、そういうナショナリズムが確立された一方で、お互いにそれを尊重しながら手を結んで、仲良く一緒に共演しようじゃないかというような雰囲気になって来ました。六〇年代のフリージャズの真っただ中では、それぞれ徒党を組んで、別れ別れにやっていた。七〇年代になって、それぞれのナショナリズムが確立されればされるほど、世界のミュージシャンは積極的に交流を望み出したというのが現状でございます。
 (「ジャズ啓蒙の四十年」油井正一)