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課題集 黄ヌルデ の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新


★最近の教育は(感) / 池新
 最近の教育は「個性重視」だそうです。旧文部省は、これまで、「ゆとりの教育」、「生きる力」など実体のないコピーで文教政策を進めてきました。「個性重視」もその一つです。
 フリーターの急増が深刻です。報道で必ず目にするのが、「自分がやりたいことが分からない」、「自分の適性にあう仕事がわからない」という若者たちの姿です。この裏側にあるのが、高校での選択科目の大幅な増加です。大学の問題としては「少数科目入試」があります。以前は、高校三年生から理系・文系に分かれました。今は、高校二年生から理系・文系に分かれる高校が多く、高校一年の夏には、その進路決定を迫られることも多いのです。旧文部省の政策担当の課長(当時)が、科目選択によって自己責任ということを学ばせる、とまでいっていますが、人生経験のほとんどない一五歳の子どもにそのような決断を迫る社会はある意味で異常ではないでしょうか。しかも科目選択に失敗するとやり直しをする教育機会が日本には用意されていないのです。
 九八年度に、私立文系の大学一年生の数学学力を調査した結果では、数学を受験科目としない学生は、高校レベルの数学力を持っていないどころか、中学・小学校程度の能力も維持していません。小中学生レベルの計数能力も怪しいのに経済学を学ぼうとする学生がトップレベルの私立大学にもごろごろいます。数学に限らず、他の科目でも同様です。生物を全く高校で学ばないで医学部に入学したり、高校で世界史を全く学ばないで中世英文学を学んだり、高校で高度な微積分や物理を学ばないで工学部に進学する学生もたくさんいます。
 たとえ自分にあった仕事、職業などというものが幻想にすぎないとしても、進路の決定を先延ばせる方が豊かな社会ではないでしょうか。以前は数学科を卒業した後に医学部に行った先輩・同級生は多くいましたし、逆に、文学部の大学院や、医学部を卒業した後で数学・物理の大学院に進学してきた先出もいました。このようなことが可能だったのはなぜでしょうか。それは、高校でしっかりと基礎学力をつけたからです。
 大学に進学する人の場合、数学を高校で学ぶ理由は明らかです。数学と縁が最も遠そうに見える文学部はどうでしょうか。哲学は思考の科学である以上は、数学的な発想を扱きには成立しないはずです。社会学・心理学の専門的なレベルの理解には、高度な統計学を必要とします。そのために必要な数学は非常に高度です。図書館情報も文学部の中にありますが、データーベースの発想などは数学が理解できる頭でないと難しいでしょう。チョムスキーは、数学を用いて言語学の基礎を作ったのです。数理的な能力抜きには非常に狭い範囲のことしか理解できなくなるということは、ぜひ社会の人に再認識して欲しいことです。
 大学で学問をするだけのために高校・中学で数学を学ぶのではありません。論理的な思考力を育むことができる教科は数学だけといっていいでしょう。経済活動は数値の世界です。社会生活を送る上での数理的な感覚は絶対必要でしょう。数学科の私の先輩のゼミのゼミ生がファミリーレストランで働いていて、一リットルのスープはつくることができるけど、一・五リットルのスープはつくれないバイト仲間がいたといっています。その先輩が植木屋さんから、最近の若い職人は薬剤の散布量を計るのに必要な面積の計算ができないと聞きました。
 情報化時代を豊かに生きる一つの道は、プログラミングができる頭をつくることです。それを可能にする基礎教育はいまのところ数学しかないと思います。現在の二〇代の情報処理技術者の層は、三〇代・四〇代に比べて非常に薄いのです。二〇年前は、文系の女子大生の就職先として計算機関係がありました。それが可能だったのは、高校で数学を十分に学んでいたからです。最近の数学離れと数学自体が論理性を軽視する形になったために、若年層、特に文系の出身者はプログラミングできる基礎能力を身につけていません。
 二〇〇二年度からの指導要領では電卓を使わない限り、円周率を3として計算することになります。小数第1位までの筆算しか教えないからです。このことを「バケツでウランを汲むようなものだ」と言った先輩がいます。日本の技術社会の多くの部分が成熟期を迎えて、末端がすべてマニュアル化されてきています。それが、全体を根本から理解するということを意味のないことだと考える社会にしています。人生の過半をおえた四〇歳以上の大人が自分の人生の中で受けたあの教育は意味がなかったといって、どんどん公教育を軽くしていっています。大学の中でも同様です。近代経済学と無関係の経済学者は、自分が現在使う能力さえあれば現在の自分が成立すると考え、入試から数学の必修を外し、さらには大学のカリキュラムを形骸化させていったのです。このような社会の風潮が新たなイノベーションを生み出さない社会を生み出し、多くの医療事故を引き起こし、さらには「個性重視」の教育を通して職業選択の幅の狭い学力の低い若者を生みだしているのです。
 これに対し、旧文部省は、小学校・中学校の教科内容を軽くする代わりに、高校で選択制を活用して集中的な学習をするから問題ないと主張してきました。しかし、アメリカでは、高校の選択制の拡大は誤りとして、今から二〇年前に止められた政策なのです。
 (岩波ブックレット「学力低下と新指導要領」『個性化教育のもたらすもの』戸瀬信之)