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課題集 黄ニシキギ の山

○自由な題名 / 池新
○学校 / 池新


★そもそも経済の基礎は(感) / 池新
 そもそも経済の基礎は、何よりもまず勤倹貯蓄にある。貯蓄して富をつくらなければ、あらゆる経済組織は成り立たない。そこで貯蓄について考えると、これには、大決心と大勇気を必要とする。倹約して暮らしてみて、後で残ったものを貯金するというような手温い明日主義ではとうてい駄目である。収入があった時に、すぐさまその四分の一を容赦なく天引きして貯金し、残りの四分の三でできるだけ節約して暮らし、もし残りがあったら、それも貯金するということにしなければならない。
 そうしていれば、その翌年からは前年の貯金の利子が早くも収入の一つとなり、全収入が増すことになるから、三〜四年後には四分の一貯金は何の苦痛もなしに、容易に実行されることになる。そして百、千とまとまった金高になったら、定期貯金、または信託預けにするか、公債その他確実な事業に投資する。こうすれば十年、二十年の後には、誰でも相当の財産ができ、安心してその業に専念することができるものである。
 もともと金は雪ダルマのようで、はじめ小さな玉ができると、あとは面白いように大きくなるものであるから、どんなに辛い思いをしても、まず千円ためなさい。千円たまれば五千円たまり、五千円たまれば一万円たまり、やがて金が自分で子を生むのみならず、金のあるところにはさまざまな知恵が集まり、続々よい投資口、面白い儲け口が出てきてやたらに金が増えるものである。
 成功にはまず勤倹貯蓄が必要であるが、次にはその貯蓄を投資、利用することがまた必要である。その投資利用の方法は、その人の境遇により一様にはいかないが、まず自己の従事する事業に投資するのが順序である。しかし、無限に増大していく資産を、ただひとつの事業だけに投資するのは安全な道でない。いかに有望な事業でも、時世の変遷からつぶれることもあるから、資産はなるべく多方面に分けて投資するのが安全である。たとえば財産を数分して、その一分ずつを土地、家屋、山林、公債、社債、株券などに分け、株券もまた確実な事業数種に分ける。
 なお投資には、現在すでに有利である事業よりも、将来に有望なる事業を選ぶのがよい。ただしいかに学者でも、本人自身に相当資産ができないような人には、どこかに欠点があるのだから相談してはならない。私の恩師ブレンターノ先生はミュンヘン大学の経済学と財政学の教師であって、四十余歳にしてすでに数百万円の資産家になった人であるが、今より六十余年前、私が苦学を卒えて帰る時に、とくに教えてくれた投資法は、次のようであった。
 「お前はよく勉強するが、今までのように貧乏では仕方がない。いかに学者でも優に独立生活のできるだけの財産がなければ、常に金のために自由を制せられ、学者の権威を維持することができないから、帰国したら、まず勤倹努力して貯蓄をし、その貯金を大いに有利に投資するがよい。それには日本では第一に、幹線鉄道と安い土地や山林に投資するがよい。幹線鉄道は将来支線のできるごとにその利益を増すし、また現在山奥にある、ただ同様の大山林を買っておけば、世の進歩とともに鉄道や国・県道ができて、都会付近の山林に近い価格となるに相違ない。現にドイツの富豪、貴族の多くは決して勤倹貯蓄ばかりでその富を得たものでなく、こうした投資によって国家発展の大勢を利用したものである」と。これは私のもっとも感激した教訓で、投資法には大いに参考になると思う。
 私が物質的にいささか成功した主な原因は、このブレンターノ先生の教訓に負うところが多い。すなわち帰国後、先生の説にしたがって貯金を始め、数年後に日本鉄道の新株を買い入れ、それが三百株余になった時に、払い込みの二倍で政府に買い上げられたから、私は年々一割の配当をもらった上に二倍半の元金に増加した。その金で今度は秩父の山奥の山林買収に着手した。当時道路の皆無のところで、ただでももらう人のない天然の大山林であったから、私はその土地、立木全部を台帳面積一町歩ただの四円ずつで買い入れ、ついに同地方で八千余町歩になったところ、日露大戦後の好景気時代に一町歩の木材だけで二百八十円ずつで一部分を売り、できた金で今度は市中で一番不便なところで南向きの高台の地所を一坪二円から六円で各所に買い入れたのが、ニ十年後にはいずれも数倍ないし数十倍になったのである。
 要するに今日成功の第一義は、身体、経済ともに他人の援助を受けないことであるが、その経済の独立には、積極的に働いて消極的に節倹しなければならない。いくら働いても節倹しなければ、あたかもザルに水を盛るように、いつまでも富をなすことはできない。またただ吝嗇(りんしょく)するのみで働かなければ、あたかも壷中の水を守るように、ついに腐敗に終わるものである。
 もとより吝嗇と節倹とは同じではない。すなわち吝嗇は当然出すべきものも出さず、義理を欠いてまで欲張ることをいうのであり、節倹は出すべきものはちゃんと出し、人に対する義理も相当にするが、ただ自分に対しては自分の欲望を抑制する克己の精神から、足るを知ってその分に安んじ、いっさいの無駄をしない、いわゆる質素簡易な生活をすることである。
 ところが実際世間から同一視され節倹はいかにもしみったれに見えて吝嗇と罵られるものである。したがって今日の実際生活には、世間から吝嗇と罵られつつ金持ちになるか、または世間から気前がよいと褒められつつ一生貧乏するか、二つのうちその一つを選ばなければならないのである。そしてここに忘れてならないことは、前者ははじめ吝嗇と罵られても後には気前よい人となることのできやすいものであるが、後者ははじめは気前よい人と褒められても、後にはかえって哀れな、意気地なしの馬鹿者と罵られるものであるということだ。
 
 「自分を生かす人生」(本田静六著竹内均解説・三笠書房)より