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課題集 黄ニシキギ の山

○自由な題名 / 池新
○未来 / 池新


★人には誰にも多少自惚れが(感) / 池新
 人には誰にも多少自惚れがあるものであるから、めいめいが自らの手柄だと思うところを全部自分一人のものにしようとすれば、必ず人と衝突する。そこで、自分の功は人に譲り、責は自分で負うことにすれば、誰でもその人と一緒に仕事をしたくなり、引っ張り凧になってついには自分がその長に推し挙げられるようになる。
 一面から見れば功を人に譲ることは、あたかもその勤労の効果を貯蓄しておくようなもので、いつかは元金に利息がついて返ってくる。私はこれを勤労貯蓄と称する。自分の勤労の結果をただちに受け取ってしまう人は、貯金をしない人と同じで、とうてい成功はできない。すべて大金持ちになる人は、その得た金をなるべく多く、なるべく長く貯蓄して利殖する人である。勤労の結果をなるべく多く長く人に譲って受け取らずにおくこと、すなわち俗にいう「縁の下の力持ち」をしておくことは、ついに人の長となり、大いに成功する秘伝である。
 あの終戦時の総理鈴木貴大郎大将が、「私ども兄弟(弟は孝雄大将)の今日は、まったく父の訓戒――分に安んじ縁の下の力持ちになれ――のお蔭である」といわれたのは、深く味わうべき言葉である。
 世の中はすべて相対的であるから、人に愛されようと思えば人を愛さなければならず、自分が成功しようと思えば、まず人を成功させてあげなければならないはずである。
 なお勤労貯蓄は、銀行の通帳のように、必ずしも直接預けておいた銀行から返金されるものとは限らない。自分が勤労を譲っておいた人からは返らずに、かえって何ら覚えのない人から不意にもらうこともあるから、結局どこからか、元利揃って返って来るに相違ない。もしまたどこからも来なければ、まだ返還の期限が満期にならないのだ、長いほどたくさんになって返って来るのだ、と思っていればよいのである。
 私は金はこちらから手を出して取るべきものでなく、向こうから出してくれるものだと思う。かつて貝原益軒が、金は盥(たらい)の水のようなもので、自分の方に掻き寄せようとすればかえって向こうに逃げてしまうが、向こうに押しやろうとすれば、かえって手前に集まって来るものだ、といわれたが、金が欲しい欲しいと焦る人が常に貧乏で、金などいっこう考えずに、職業道楽にふける人に金が集まるのは不思議に思われるくらいである。
 また一歩進めて考えれば、自分の働き、自分の功績を人に譲ることは、すでに自分が功を功としていないために、誰もこれを争う者がないから、その功は自分のもとを去らず、かえって長く自分の功となるということもできる。老子のいわゆる「生じて有せず、為して恃(たの)まず、功成りて居らず、それ唯居らず、是を以て去らず」とはこれをいうのである。
 処世上、勤勉忠実、とくに縁の下の力持ちなどは、ちょっと損な回り道のように見えるが、その実はもっとも徳用な近道であり、これに反し、権謀術策、才知などは一時的なもので、これを用いている間は真の大成功はできないものである。このことは誰でも四十、五十の齢になればそれがわかるものであるが、それを二十代の時から気づいたなら、きっと偉い人にもなり大成功ができるのである。
 
 「自分を生かす人生」(本田静六著竹内均解説・三笠書房)より