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課題集 黄ニシキギ の山

○自由な題名 / 池新
○服 / 池新


★人がその学校や職業を選ぶには(感) / 池新
 人がその学校や職業を選ぶにはよく自分の体質と性格とを考え、先生や親、先輩や友人に相談して決定すべきことはもちろんであるが、一度これと決めた上はどこまでもそれを自分の天職と確信し、迷わず疑わず専心その業に勉励すれば、自然その仕事が自分に適するようになり、上手に楽にできて面白くなり、ついにその職業を道楽化し、容易に成功することができるものである。
 ところが一度決めた専門や職業を中途で変更するような人は、幾度取り替えてもたちまちそれがまた嫌になり、いたずらに歳月と労力を空費し、終生成功のできない人で終わるものである。
 ○成功の秘訣は目的の一定不変なるにあり。(ディズレリー)
 ○倒れるごとに起つ人はついに倒れざる人となるべし。(ウィリアム・モリス)
 ○実行できるとの確信が生まれるまで仕事に着手するな。一度着手した仕事は、どんな障害があっても中途で挫折するな。(ブラウン・グッチ)
 だから一度決めた方針はいかなる困難に遭おうとも、これを変更することなく、専心努力することは成功上きわめて必要なことで、実に努力の前には不可能ということはないのである。とくに平素その仕事に全力を注いで努力している人は、俯仰(ふぎょう)天地に恥じないから、いかなる場合にも安心してその職業を道楽化していくことができるものである。それなのに人としてその方向に迷い、たびたびその方針を変更する者は、あたかも山に迷った人のようについに迷い死に終わるものである。
 だいたい日本の山はどんな大山脈でも、その山中より数時間ないし十数時間、同一方向に進んで行けば、必ず人里に出られるはずなのに、迷った人はせっかくもう少しで人里に出るというところまで来ながら、また迷っては引き返し、再び険阻(けんそ)に逢って引き返すというふうに、同じ場所を何度も往復しつつ、ついに飢え疲れて倒れるのである。
 これに反し、意志の強い人または山に慣れた人は、その山中に迷った場合にも、目をつむって杖などを倒してみてその方向を定め一度方向を定めた上は、それに向かって勇往邁進し、たとえ途中で険阻、難所に差しかかっても、避けず恐れず踏破するから、いつしか峠を越えて下り坂となり、楽に人里に出られるのである。実際不成功者の多くは、いずれも成功者と同じように努力しているのだが、ただそれがもう一歩というところで苦しくなり、迷い心が生じて、その努力を中止してしまうのである。したがって私は世人のために最後の五分間の努力を惜しんで九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠くことのないようにせつに折るものである。
 もちろん、一度決めた職業にも絶対に変更の必要が起こらないというわけではない。すなわち、社会または自己の事情が変化したため、必然的に変更することはあえて妨げない。ただこの場合にも、その目的はだいたい従前どおりであって、なるべく従来の経験、知識が引き続き役に立つような道を採り、ただその方法を変更する程度であればよい。たとえば、人力車夫が自動車屋に変わり、餅屋がパン屋になり、軍人が職工長になり、銀行家が隠居して金貸しになったり、また官吏がその地位も上がりもはや前途の望みがなくなった場合に、その地位を後進に譲って、これまでの経験知識を生かして弁護士になったり、会社の顧問になったりすることなどは、その方法は変わるが、自ら修めた学問や経験を応用する点は同一であるから、あながち職業の変更とはいえない。そしてこのようなものは変更であるとしても、あえて差し支えない変更法である。しかしながら官吏になったばかりの法学士が、月給が少ないとか昇進が遅いとかの不平不満から、商売人になったり、実業家に変わったりするなどは、方法も目的も全然前後に関係のないことであるから、その変更は著しく不利である。
 ひるがえって考えてみると、実際酒屋を営んで成功した人は、呉服屋をしても成功する人であり、庭掃除の上手な人は、書も文も上手になれる人である。世間には時々自分は今つまらない仕事についているから勉強しない、不遇の地位だから努力しない、などという人があるが、それは大変な間違いで、そんなことではいつになっても成功できっこない。とくに青年時代には好き嫌いせず、なんでも与えられた仕事に努力して、一つひとつそれを成功させていくことが肝要である。
 
 「自分を生かす人生」(本田静六著竹内均解説・三笠書房)より