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課題集 黄ニシキギ の山

○自由な題名 / 池新
○家 / 池新


★学校を卒業すれば(感) / 池新
 学校を卒業すれば、それぞれ実社会の職業につくことになる。これからが本当の人生活動期にはいるのであって、学校で学んだ抽象的な原則を複雑な社会生活上の実際問題に応用していくのである。学校には教師という指導者がいて、もし矢敗すればただちに忠告してくれるし、間違って落第しても、半年か一年の勉強によってこれを取り返すことができるのである。しかるに社会生活にはいってはこれという指導者もなく、むしろややもすれば陥れようとする人々の間に生きなければならないのだから、その生き方は非常に困難である。
 一般に専門学校や大学出の人たちは、その免状を有することにより専門学校を卒業したと自惚れ、世に出てからは専門学の進歩に無頓着になり、社交方面へのみ進出しようとする傾向がある。これに反し、義務教育や中等学校だけで終わった人々は、自分には専門的な知識が足りないからどうかしてそれを学ぼうと真剣になり、専門の雑誌や新刊書を精読して、絶えず社会の潮流に乗って新知識を得んと努力している。こうした二つの進み方は、長い長い社会生活において、前者は後者に追い越されてしまうという結果を招くのである。実際、学校で習得した専門的知識が、日に月に絶え間なく進歩していく今日は、大学、高専出身者も常にその進歩に遅れないよう心掛けなければならない。
 なお私が学校卒業者に望みたいことは、もとよりその専攻した学問に関する仕事を志望するのは当然であるが、同じ仕事の中でも他人の望む好位置を捨て、むしろ他人の嫌がる困難な低い位置を選べということだ。そのような低い位置から社会の第一頁を始めるにおいては、自然に生活と闘うため、たくましき力を得、次々と起こる苦境をゆうゆうと押し退けて、やがて生活戦線に凱歌を奏することができるのである。
 卒業後ただちに親や親戚の手引きではじめから好位置に座り、実力不相応の役につくがごときは、ややもすれば失脚のもととなり、あたら一生を不幸にする恐れがあるゆえ、真に自己の力だけでよい位置を闘い取るよう覚悟する必要がある。
 要するに、卒業生はその学校の高低いかんにかかわらず、社会生活には等しく一年生である。しかも、ここで、さらにさまざまな社会試験を経て、その人の一生は決定されるのである。したがって卒業後実社会にはいる出発点こそは、まことに重大といわねばならない。
 国家の支柱たる青年は当然のことながら創造的努力生活に生きる必要がある。創造的努力とは既製品を弄(いじ)りまわすことではなく新規に生み出すための努力である。それはまた自他冥合によって、そこで新たなるものを生み出す努力である。そしてその結果、新たに生み出されるものの中に、自他は統一されて、いよいよその面目はまっとうされるのである。
 家屋は、木材や石や鉄からでき上がってその機能を現わすが、それら資材は家屋の中に統一されることによって、いよいよその面目を発揮するのと同じく、国家は国民によってその生命を新たにし、国民は国家に統一されることによってその面目をまっとうするのである。創造的努力のうちにあっては、そこに一つの大調和、大統一が行なわれ、その統一のうちにはいるものはそれが多種多様であるほど立派となる。すなわち調和は、統一さえ強ければ黒白相反し、正邪相反し、美醜相反するものが多く存在するほどよいのであるから、創造の対象をより好みする必要はさらにないわけである。
 とくに今日の青年の大欠点は、体験の伴わない知識に自惚れることである。すなわち青年がある新知識を修得するや、ただちに批判力判断力をも同時に修得したように信じ、ゲーテを読めば自分もまたゲーテと同等の作品をつくり得ると考え、カントを読んではただちにカントを批判し得ると思うのだ。このような自己の批判力の買い被りは誤謬に陥り、極端に走り、自他を不幸になすものである。敗戦を喫したる現在、青年たちが混乱の興奮に駆られ、自分の実力もはからず国家や社会組織の改造を自分の任務であるかのように考えるのは寒心の至りである。
 青年は何よりもまず自分が身を修め、家を斉(ととの)え、一人前になるまでは国家に対する批判を差し控えるべきである。急がなくても政治的権利を行使する時は来るのであるから、現在与えられた自己の仕事に専心し、相当の勢力と地位とを得て、やがて国家に尽くすべき時に、十分活動できるよう修養、準備すべきである。ドイツの諺に「巨匠は制限の中に生まれる」とあるが、制限を忍耐した体験のない者は決して有効な働きはできないものである。
 
 「自分を生かす人生」(本田静六著竹内均解説・三笠書房)より