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課題集 黄ネコヤナギ の山

○自由な題名 / 池新



★こと青春に関するかぎり(感) / 池新
 こと青春に関するかぎり、これまで私はどんな文章も一切断わりつづけてきた。青春などというものはだいたい、油が切れて先がなくなってしまった人間だけが書くものだ。
 だが私も、そろそろそんなことはいえない年齢になってきた。ヨーロッパでは三十代までは青年の仲間入りができると聞いて、気を強くしていたのだが、いよいよ私もその三十代をすぎてしまったのである。あきらめてなにか一言、私見をのべてみることにしよう。
 これまで日本では、青春は不当に買いかぶられるか、さもなければ不当に抑圧を強いられてきたように思う。しかしよく考えてみれば、両方とも、結局は一つ穴のムジナでともに青春は美しく清純なものだという固定観念のうえに成り立つものにすぎなかったのだ。永遠の青春などという年寄りじみたやにさがりにしても、また青年は青年らしくという、教育者的お説教にしても、すべて青年をある青春概念の中に閉じこめる役割しかはたしていなかった。
 だが、本当の青春というものは、自分が青春などであることなどに決して甘んじたりはしない自己否定の精神のことなのではあるまいか。現状を認めないということが未完成な魂の特質なのであり、だからこそ完成へと向うたくましさもあるわけだ。青虫だって、現状否定によって初めてチョウになれるのである。青春だなどといわれてよろこんでいるような青春は、すでに青春の力を失った脱け殻的青春にしかすぎまい。
 だから青春には現状を否定してたえず未来に進もうとするエネルギーと同時に、すべて過渡的なものにつきまとっているあの未完成で矛盾にみちた青虫的いやったらしさが充満しているのである。
 もし大人たちが、本当に青春の味方になってやろうとするなら、「成人の日」のお祝いも結構だが、半面いたずらに清純や素直さなどをおしつけたりせずに、そのいやらしさをこそ、むしろ愛してやるべきなのではあるまいか。なにも青春にかぎらず、一見いやらしくみえるものこそ、実は真に美しいものかもしれないのである。