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課題集 黄ネコヤナギ の山

○自由な題名 / 池新



★油絵の持つ強固で(感) / 池新
 油絵の持つ強固で精密な再現力はきわめて新鮮な魅力をもって、たちまち人びとをとらえたが、これは、すでにあったさまざまな手法にもうひとつ、きわめて効果的な新しい手法が加わったということではなかった。たとえば油絵具の、次々と塗り重ねることによって、それ自体強固な物質を形作るという性格、そのような物質化した色面が集まって作り出す厳密な画面構成、そういったものはまさしく嘆賞すべき油絵の特質にはちがいないが、一見普遍的一般的なものに見えるそのような特質も、実はヨーロッパ独特の物質感覚、空間感覚に根ざし、そこから生まれ出たものである。油絵は、ヨーロッパという特殊を普遍と思い誤りかねないほどの魅惑力をふるっていたが、たとえばわが国の場合、その魅惑力に身を委ねながらも長い美術の伝統によって培われてきた繊細精妙な美的感覚が、われわれのなかの奥深いところで、それに反抗した。もちろん、そのようなことはまったく意識せず、楽天的に油絵に身を委ねているだけの画家も、数多くいたであろうが、すぐれた画家であれば、それをどれほど明瞭に意識しているかは人によって異なるとしても、油絵という表現に反抗する何かを、鋭い痛みのように感じていたはずなのである。
 たとえば風景に対する姿勢にしても、われわれの風景観には、風景とわれわれとが互いに浸透しあっているところがある。風景を他者として外部に眺めるのではなく、われわれが風景のなかにいることを好むようなところがある。十数年前、パリで暮していたとき、私はよほど風がひどくないかぎり、アパルトマンの窓を開け放していたものだ。別に大したものが見えるわけではないが外の眺めが見え、外の空気が入りこんでくるだけで楽しかったのである。ところが、訪れて来るフランス人たちは、ほとんど例外なく窓があいていることを気にした。ちらちらと窓の方を眺めたあげく、とうとう我慢出来なくなって、「失礼だけど、窓をしめてもいいだろうか」と言い出す男もいた。自分の生活を他の人間にのぞかれたくないと言えば言えようが、窓に対する彼らのこだわりかたには、それだけでは片付かぬところがあった。そこには、おのれと他人との区別を、またおのれと外部との区別を明確にし、おのれをよりいっそう閉じることによって、外部をよりいっそう外部として定立するという彼らの思考形式が、おのずから反映しているようなところがあった。もちろん、ヨーロッパにも内外合一という思想はある。だが、それは、内外の厳密な区別という彼らにとって本質的な思考形式を踏まえたうえでのことだ。それは、たとえば、カール・バルトの危機神学などにおいては、われわれの内部は、超越的他者としての神には絶対に出会いえぬというまさしくそのことによって神と出会うという、文字通り危機的なかたちをとるに至るのである。私はパリでの些細な経験を通して、彼らのそういう思想形式を改めて痛感した。若年期からヨーロッパの文学や芸術に親しんできた私にとって、それはごく身近なものになってはいるのだが、にもかかわらず日常生活におけるその現われにこのような違いがあることが、私にはいかにも面白く思われたものだ。油絵をおのれの仕事としたわが国の画家たちも、当然、さまざまなかたちでこれに類したことを経験したに違いないのである。油絵具によって表現した風景は、その強い物質感と立体的な空間性とによって、彼らを喜ばせたであろうが、その効果があざやかなものであればあるほど、そういうことにあるよそよそしさを感じる意識の動きも鋭く自覚されたはずだ。そして、このようなことから、わが国の洋画家たちの複雑な工夫が生まれたと考えていいのである。
 もちろん私は、油絵という手法と日本的感性との、単純な和洋折衷を云々するつもりはない。その種の試みも数多くあったであろうが、まずたいていは、いわゆる和洋折衷住宅同様、凡庸でたいくつな代物にすぎぬ。単なる思い込みの産物である「日本的感性」なるものと、油絵の手法とを、和風の建物に洋風の客間をくっつけたようにあいまいに共存させているにすぎないからである。かくして、「日本的感性」は、題材の特殊性によりかかった一種の雰囲気に堕する。一万、油絵という手法も、物質と空間に対するそのおどろくべき追求力を失う。両者ともにその危険な牙を抜かれ、中途半端な妥協によって、束の間の和合を楽しむだけなのである。
 油絵という手法と、われわれに固有な意識や感性の動きとを真に結びつけるという厄介な仕事が、このような及び腰の姿勢で成就されるはずがない。こういう仕事を成就するには、油絵を、それがはらむすべての危険をふくめて、全体的に受け入れる必要があるだろう。そのことがわれわれのなかに生み出すさまざまな亀裂や解体の画家それぞれにおいて異なる独特のありようをはっきりと見定め、長く困難な忍耐と刻苦とを通して、この亀裂や解体そのものを、進んでおのれの表現の動機にまで鍛えあげる必要があるだろう。そのときはじめて、油絵とわれわれの意識や感性との、切迫した、だが強固な結びつきが成就されるのである。このことが、明治以来のわが国の洋画家たちに、ヨーロッパの画家の知らぬ苦痛や不幸を強いたことは確かだが、このような苦痛や不幸に際しての複雑な工夫を通して、はじめて油絵がわが国に根付いたとも言いうるのである。