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課題集 黄ネコヤナギ の山

○自由な題名 / 池新



★椿を主題とする(感) / 池新
 椿を主題とする漆器(しっき)や彫金、木彫や陶磁器、染織や絵画、そうしたものの安土、桃山から江戸にかけての様々な作品の写真を繰りかえし眺めているあいだに、私はおのずとそうしたものが作られた文明の雰囲気のなかへ自分が溶け入って行くのを感じていた。
 それは確実にひとつの純粋な文明の雰囲気であり、そして二十世紀の現代の日本文明とは異質の世界である。しかしその雰囲気が現代と異なっているといっても、決して私の感受性に対して違和感を与えるものではなく、むしろ逆に私の心を優しく和ませてくれる。そしていつか幼い頃にこのなかで静かに眠ったことがあるという快い思い出のような匂いを伴った世界なのである。
 そこにはこちらの認識力を鋭くとぎ澄まそうと迫ってくるような作者の個性的な主張、また独自な観察眼によって今まで私たちに気づかれていなかった椿という植物の意想外な形姿、というようなものはない。
 現実的な観察とそれにもとづいた個性的な描写という近代芸術の手法は、私たちを不安にさせる。それは対象と私たちとのあいだに長いあいだに出来あがっていたある型のようなもの――それが心に平和をもたらすのだが――を対象から引き剥いで、それを全く新しいイメージとして改めて突きつけてくるからである。私たちは従来知っていた――この場合には椿という花――とは別な何かに眼覚めさせられ、私たちが今まで椿だと決めこんでいた映像は偽のものに過ぎなかったのだ、と宣言しているように思われるからである。
 近代というのはそうした時代であり、近代芸術は私たちのまわりから長い時間が作りだしてくれていた心を安めてくれる型をいちいち破壊して、もう一度、虚無のなかから現実像を発見し直すように私たちを強要する。
 そうして、人々は近代芸術に慣れ親しむにつれて自分の感受性が寸断され、白分が孤独な存在として世界のなかに宙吊りになっている、という悲痛な思いに捉えられるのである。
 しかし、そのように私たちを孤独にするものだけが芸術なのではない、とこれらの漆器や彫金は私たちに語りかけてくれる。
 たとえば椿を尾長鳥がくわえて飛んでいる釘隠しであるが、この鳥の左右に拡げた双称的な翼と、また下へ向かって垂直にのびた長い尾との作りだす形の安定は、その羽根の並びの規則的な重なりと相まって見る人の心を快い落ちつきに誘ってくれる。
 ここでは空気を裂く運動や、その空気の抵抗が羽根に与える毛ばだちや、といった近代的なレアリスムの感覚は、多分、芸術的な気品のなさとして作者の視線のなかであらかじめ整理され切り捨てられている気配がある。そのような生なものをそのままこうした工芸品に持ちこまないことが芸術家の心ばえであるという倹(つま)しい古風な信念がそこに感じられて、私たちをのびやかにさせてくれる。
 しかしそれはそうした生のものにはじめから工芸家が鈍感であったというのとはちがう。その証拠には翼のしたに深くまげられた鳥のくびのつよさは、まさにその運動の瞬間において工人がこの全体のイメージを捉えたのだということを明らかに示していて、それが私たちに芸術的な快さを与えてくれるのである。この鳥はたしかに生きていて、椿の枝をしっかりとくわえているのだ。彫刻家ののみの粗放さによって危うく枝を切りおとしそうな印象を与えることなどあり得ないのだ。
 もし、今にも椿の枝が地面に落下しそうに不出来に仕上がっているとしたら、このデザインは釘隠しという実用的な用途には不向きだということになる。不向きであろうが何だろうが見たままを造形化するのだ、という近代的な写実主義的な強情さはこの工人とは無縁である。