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課題集 黄ネコヤナギ の山

○自由な題名 / 池新



★すぐれた都市(感) / 池新
 すぐれた都市、魅力にあふれた都市は、住民の生活に活気と安定感を与える。都市の装置は、人々を封じ込める容器となるのではなく、生活と一体になっているように感じられる。このように都市は人々の生活に活気を与え人々を豊かにする一方で、生活の活気がこんどは都市に反作用し、都市に活気に満ちた雰囲気を与える。
 だが、こうした魅力ある都市は現代のわが国からしだいに姿を消しつつある。近代的・機能的で美しい外見を備えていても、落ち着きや生活感がみられなくなっている。なぜそうなってきたのか、またこうした流れをくい止めるにはどのような手段を講じればいいのか。こうしたことを考えていくために、ここではまず、ほんらいの都市のあり方について考えてみることにしよう。
 アリストテレスがポリスは善き生活のために存在すると述べたとき、彼はポリスつまり都市国家の国家的側面を主として念頭に置いていた。したがって、善き生活とは政治体としてのポリスがめざすべき目的であって、その内容は市民の日々の生活の充実にあるよりは、むしろ市民の倫理的生活に関連するものであった。いうまでもなく現代の都市はアリストテレスのいう意味での善き生活をめざしはしない。しかし世俗化された現代の都市においても、何らかのめざすべき生活の理想がないとはいえないだろう。それでは現代の都市における善き生活とはどのようなものか。そもそも「生活」とはいったい何だろうか。
 今日では、善き生活をおくるということは、リッチで豊かな消費生活をおくることとほとんど同義になっている。豊かな社会とはまさしく大量消費の社会のことである。消費が生活のすみずみにまで浸透し、生活の全域を覆ってしまった結果、消費と生活とは区別がつかないほどに同一視されることになった。労働や仕事は消費財を得るための手段となり、衣食住だけでなく余暇や教育までもが消費の一環となりつつある。
 だが、消費と生活とはもともと互いに性格をまったく異にした概念である。消費の原義は、use up,eat or drink upすなわち物を使い尽くしたり、食べたり飲んだりすることであるのに対し、生活のもともとの意味は「住まうこと」である。生活することと住まうこととはもともと同じ意味をもっており、これらに共通するのは人間がある場所を占めるということである。生活とは場所の占め方のさまざまな様態のことにほかならない。電車やバスに乗ることは消費の観点からみれば料金を払って交通サービスを消費することであるが、これを生活の視点からみると、満員電車に揺られて通勤したり、あるいは車窓から移りかわる景色を眺めたりすることを意味する。
 われわれは、いついかなる時でも何らかの形で場所に関わりをもって生きている。仕事をする時もそうだし、家庭で食事をする時もそうである。こうした場所への関わりの全体が住まうことであり、生活することの意味なのである。
 消費という活動ももとはといえば住まうこと、あるいは生活することの一環であった。家族が食堂のテーブルを囲んで食事をとるということは、美味で栄養価の高い食物を摂取することより以上のものである。しかも食事は他の行為と切り離されて独立におこなわれるものではない。食事に先立って、近くの商店にいつもの道を通って買物に出かける。時には途中で知人と出合って立ち話をすることもある。店では主人としばらくやりとりをする。食事という活動ひとつとってみても、それは他の活動と関連をもち、生活全体の中に位置づけられるものである。
 (中略)
 都市が消費の舞台になっていることと都市が投機の対象となることの間には密接な関係がある。いずれの現象も都市から生活が失われていくことの帰結である。
 都市住民の日々の生活から「生活」がしだいに蒸発していくにつれて、生活は多彩な綾をなくし、物やサービスを買ってそれを使い尽くす消費へと変貌していく。同様に都市から生活感がなくなっていくと、生活と一体となっていた都市の物的基盤から生活が脱色されて、それらは人を収容する物的容器となり、さらには利益を生み出す物的資産と化していく。
 社会的共通資本としての都市は、容器としての物的装置ではないし、またそれが生み出すサービスを人々が消費者として消費するという意味でのストック(資本)でもない。むしろそれは人々の生活そのものを象(かたど)るものである。都市の形態いかんによって生活は単調にもなれば多様性に満ちたものにもなる。社会的共通資本はこうした都市の形態を形づくる。この都市の形態をいい表わすものとして、われわれは「場所」という概念を呈示したい。
 生活が消費とは異なっているように、場所は土地とは異なっている。現代の都市は土地の上に構築され、そこでは消費が人々の主要な活動様式になっている。これに対してほんらいの都市は場所としての都市であり、そこで営まれるのは人々の生活であるといえるだろう。生活は土地の上で営まれるものではなく、場所の占め方のさまざまな様態が生活である。あるいは場所を生きることが生活だといってもいい。だから善き生活を営むことは善き場所をもつことと同じである。
 都市を考えるにあたって土地と場所の違いをしっかり心にとめておくことは重要なことである。というのも、現代の都市からしだいに場所が消えていき、そのことが都市の質を著しく劣化させていると思われるからである。