昨日252 今日248 合計152338
課題集 黄ネコヤナギ の山

○自由な題名 / 池新



★物との結びつきを(感) / 池新
 物との結びつきを根本的に変質させ、社会との結びつきを根底的に変化させつつある私たちにとって、そこでの出来事の生成と着床のあり方は、経験におけるそれとは正反対である。正反対であるような変質であり、変化なのである。その「結びつき」が含んでいた物事のあらゆる局面は、時間とともに結晶するのではなく、反対に一つ一つその輪郭と形状と特性とを曖昧にし消失していく。それはくっきりと刻まれ印づけられるということがない。この限りで現代の私たちを貫く「自然過程」は、見かけのどのような装いにもかかわらず、衰弱であり減退である。私たちが何を失くし何を忘れ去ったのかさえ判然としない「忘却の忘却」は、その端的な現れにほかならない。
 ささやかでも全力を振りしぼって、この時代的傾性に抵抗しようとするなら、少なくとも私たちには、喪失したものに対する鎮魂と消滅しつつあるものに対する敬意とを含むような認識が欠かせないだろう。失われて過去に深く埋もれたままの物事に、それが待ちうけているであろう新たな眼差しを注ぎ、現に消滅しつつある物事には、それが充分にかけがえのない「働き」をなしとげたのかを見届けねばならない。事物一つ一つの身の上に投じられる鎮魂的認識と物質的想像力とが、私たちには肝要なのである。そうして事物の伝記を形づくる、その物事の来し方と行く末とを貫く運動に対して注意深くなければならない。
 かつてホッブスは、その感覚の解剖学において、物事の中断された運動や消失ないし除去された対象が、そのあとに残す感覚的映像のせめぎあいについて考え、それを「衰えゆく感覚」(decaying sense)として把えた。人間が目にした事物の印象や耳にした物音の行方に注意を向けて、それが消滅したり遠ざけられたあとに、衰退しながら「なおも残る」感覚的な経験を力学的な運動として捉えようとしたのである。それを借りて言えば、私たちの経験世界は、激烈な「衰えゆく感覚」運動のなかにあるのではないか。いわば感覚は定着すべき基礎をもたず、ただちに映像化の過程に移行してしまうのではないか。感覚の対象との結びつきが弱ければ弱いほどその衰退の過程は加速され、交替のサイクルは短縮されるだろう。物事との交渉が稀薄であれば、ホッブスが言うように、私たちの感覚映像は「日中の騒音における人の声」程度にしか刻印されないからである。
 「衰えゆく感覚」の与件そのものがすさまじいことは言うまでもないだろう。たとえば「人間について大地は万巻の書より多くを教える。大地が人間に抵抗するがゆえに。」(サン=テグジュベリ)という生の基盤としての大地自体がいまや決定的な変貌をとげつつある。地表を隈なく覆おうとする開発の全精力は、「抵抗」すなわち自然が帯びる「不快さ」の除去に集中しているようにみえる。削られ均らされ整えられた土地という名の物件は、種々様々の抵抗を生んだ大地の形姿そのものを「衰えゆく」ものとするだろう。曲がりくねり凹凸があり障害物を含むからこそ大地なのだとすれば、その映像を後退させ衰弱させて、直線や平面という幾何学的図形の印象が取って代わるのである。こうして私たちの「内面」は幾何学化されていくのだ。しかも、万巻の書にまさるという「抵抗」を排除する一方で、ますます学習と教育に熱をあげている。どこで何を学ぼうというのだろうか。
 そうであるなら、私たちは、消滅して「もはやない」ものと生成の「まだない」ものとの関連について語るよりも、いや語るまえにむしろ「もはやない」と「まだ、なお」とのそれに注目すべきではないか。私たちにとって「もはやない」は、「まだない」を対項として予想することができるのだろうか。あるいは、不可欠の契機としてそれと切り結ぶことがないのではないか。つまり、「もはやない」はそれとして成立しえず、したがって、「まだない」を着床させることができずに、いわば繰りかえし流産してしまうのではないか。そうであるとすれば、むしろ「もはやない」を成り立たしめ、忘却の忘却からそれを救い出すためにも、私たちは「まだ、なお」に対してこそ注意深くなければならないだろう。ここで「まだ、なお」は、ホッブスの「なおも残る」映像すなわち残像である。少なくとも「もはやない」ものの危機的事態からすれば、それは残像であるほかないだろう。私たちが身を置いているのは、そのような「残像」文化なのではないか。