昨日483 今日232 合計155579
課題集 黄ネコヤナギ の山

○自由な題名 / 池新



★科学研究にあたっては(感) / 池新
 科学研究にあたっては、科学者は常にある一定の前提のもとに対象に立ち向かっている。それは必ずしも研究者自身に意識されているとは言えないが、それでも、事情は変わらない。たとえば、現在の大部分の科学者は、対象の中に法則性があることを疑っては居らず、対象に内在するはずの「法則」を発見しようとしている。この場合、「法則」が存在するかどうかは科学の問題ではない。それは現代の科学者にとっては自明の前提なのであって、つまり前提なのである。
 しかし、対象の中に法則があるかどうかは必ずしも自明であるわけではない。つい四百年前までは、法則を発見しようなどという人は存在しなかったのであって、研究結果を法則として定式化しようとする態度は歴史的に形成されてきたのである。しかし大多数の科学者は、先輩たちが大昔からそのような態度で自然を研究してきたと思い、現在にくらべて未熟で不完全であったと思っている。一体に科学者は科学の歴史にあまり関心を持たないのであるが、このような見方で科学の歴史を見れば、科学史は現在の研究に役立たない過去の異物に見えるのは当然である。しかしその場合、彼は、実は歴史を見ているのではなくて、現代科学に通用するものを拾い出しているだけなのである。
 科学研究にあたって前提とされているのは、一つには、対象はこのようにできているはずだという自然観(社会観)と、第二に、このようにアプローチすれば対象を把握することができるという研究方法である。研究方法はいうまでもなく、自然観からくる。対象がある要素から成り立っているとする自然観を採れば、できるだけ分解・分析して要素を見出し、要素間の関係を発見しようとするアプローナの仕方が方法となる。もし対象が何かある超越的存在によってすべて左右されているとする自然側を採れば、そのような超越的存在を把握することが課題である。このように、研究方法は対象をどのようなものとしてとらえるかによってきまるのである。
 しかし、このような自然観および研究方法は、通常、科学者には意識されていない。その理由にはいろいろあるが、もっとも大きいのは、科学者としての訓練を受ける間に、無意識的に自明なものとして受容するからである。それができなければ、科学者の世界において科学者と認められない。その場合、自分の抱いている自然観にすら意識が及ばないのは、科学者の訓練がもっぱら問題の解き方に始まり解き方に終わるからである。
 科学者が科学研究の仕方を身につけ、無意識的にある白然観を身につける場合、大体は指導者と教科書によっている。しかし実を言えば、講義を聞いたり教科書を学習するだけでは研究の仕方は身につかない。それは研究の結果を要領よくまとめてあるだけで、研究の過程を示してはいない。「要領よく」というのは、研究過程に必ずつきものの失敗や脇道への逸脱を切り捨て、過去の成功例だけを取り出して体系化しているからである。そして必ず解ける問題だけが問題として取り上げられている。このような講義や教科書で学んだ科学者が、解ける問題だけ取り上げ、一定の手続きに従って行けば研究になると思い込むのは異(い)とするに足りない。
 いずれにせよ、科学者は講義と教科書によって、一定の自然観と方法を無意識に身に付けるのであって、すべては自明のこととして受けとられる。小学校のときからそのように育てられているのである。そういうわけで、この前提は、問いの立て方をも決めるものである。
 科学者にとってこの前提が意識されないもう一つの主な理由は、科学には前提を前提と見なさない無反省の態度が結びついているからである。科学および科学的と称する立場では、昔から自分たちは「ありのまま」に見ているのだ、という態度をとってきた。前提つまり「色眼鏡」を通して見るから間違いを犯すのであって、前提なしに「ありのまま」に見れば真理が獲得でき、それが科学だと信じられてきたのである。科学の歴史を見ると、新しい見方の提唱の場合、かならず「ありのまま」に見ることが強調され、以前は偏見によって曇らされ、歪められ、真実が見えなくさせられていたのだと主張される。しかし、この主張が何度も繰り返されてきたこと自体が「ありのまま」に見ることなぞありえないことを示している。つまり、人々はつねに「ありのまま」に見ていると確信してきたのであって、現在「ありのまま」にとらえていると思い込んでいても、いずれはそれも偏見であったと見なされる時がくるに違いない。「自分の見方がつねに正しくて、他人はすべて間違っている」と思っていることを科学者の特質として挙げた人がいるが、まさにその通りなのであって、過去の科学者もその当時において本人は「ありのままに見ている」と思っていたのである。
 科学者をしてそのように思わせているものこそ科学思想なのである。それは地域によって異なり、時代によって異なっている。そして、それぞれの地域と時代における科学研究の前提となってきたのである。