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課題集 黄ネコヤナギ の山

○自由な題名 / 池新



★身体は、ひとつの(感) / 池新
 身体(からだ)は、ひとつの物質体であることはまちがいがないが、それにしては、他の物質体とはあまりにも異質な現われ方をする。
 たとえば、身体はそれが正常に機能しているばあいには、ほとんど現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されることはなく、脚の動きを意識すれば逆に脚がもつれてしまう。話すときの口唇や舌の動き、見るときの眼についても、同じことが言える。呼吸するときの肺、食べるときの胃や膵臓となれば、これらはほとんど存在しないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。が、その同じ身体が、たとえばわたしが疲れきっているとき、あるいは病の床に臥しているときには、にわかに、不透明なものとして、あるいは腫れぼったい厚みをもったものとして、わたしたちの日々の経験のなかに浮上してくる。そしてわたしの経験に一定のバイヤスをかけてくる。あるいは、わたしの経験をこれまでとは別の色で染め上げる。ときには、わたしと世界とのあいだにまるで壁のように立ちはだかる。わたしがなじんでいたこの身体は、よそよそしい異物として迫ってきさえするのである。
 あるときは、わたしたちの行為を支えながらわたしたちの視野からは消え、あるときはわたしたちがなそうとしている行為を押しとどめようとわたしたちの前に立ちはだかる、こうした身体の奇妙な現われ方は、さらに別の局面でも見いだされる。それはたとえば、わたしたちがなにかをじぶんのものとして「もつ」(所有する)という局面だ。なにかを所有するというのは、なにかをじぶんのものとして、意のままにできるということである。そのとき身体は、ものを捕る、つかむ、持つというかたちで、所有という行為の媒体として働いている。つまり、身体は、わたしが随意に使用しうる「器官」である。が、その身体をわたしは自由にすることができない。痛みが身体のそこかしこを突然襲うこと、あるいは、身体にも「倦怠」が訪れることに、だれも抗うことはできない。このことを『存在と所有』の著者G・マルセルは次のような逆説としてとらえる。つまり、「わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実にはわたしの意のままにならない」という逆説のなかに、かれは「不随意性(意のままにならないこと)ということの形而上学的な神秘」を見てとるのである。
 こういう「神秘」は、身体一般のなかには見いだされない。身体一般というのは医学研究者にとっては存在しても、ひとりひとりの個人には存在しない。身体はわたしたちにとっていつも「だれかの身体」なのだ。痛みひとつをとっても、それはつねにわたしの痛みであって、その痛みをだれか任意の他人に代わってもらうなどということはありえない。そのとき、痛みはわたしの痛みというより、わたしそのものとなっており、わたしの存在と痛みの経験とを区別するのはむずかしい。身体にはたしかに「わたしは身体をもつ」と言うのが相応しい局面があるにはあるが、同時に「わたしは身体である」と言ったほうがぴったりとくる局面もあるのである。人称としてのわたしと身体との関係は、対立や齟齬(そご)といった乖離(かいり)状態にあるときもあれば、一方が他方に密着したり埋没したりするときもあるというふうに、どうも極端に可塑的なものであるらしい。
 身体は皮膚に包まれているこの肉の塊のことだと、これもだれもが自明のことのように言う。が、これもどうもあやしい。たとえば怪我をして、一時期杖をついて歩かなければならなくなったとき、持ちなれぬ杖の把手の感触が、はじめは気になってしょうがない。が、持ちなれてくると、掌の感覚は掌と把手との接触点から杖の先に延びて、杖の先で地面の形状や固さを触知している。
 感覚の起こる場所が掌から杖の先まで延びたのだ。同じようにわたしたちの足裏の感覚は、それがじかに接触している靴の内底においてではなく、地面と接触している地の裏面で起こる。わたしたちは靴の裏で、道が泥濘(でいねい)かアスファルトか砂利道かを即座に感知するのである。身体の占める空間はさらに、わたしのテリトリーにまで拡張される。見ず知らずのひとが、じぶんの家族なら抵抗がない至近距離に入ってきたとき、皮膚がじかに接触しているのでなくても不快な密着感に苦しくなる。いつも座っているじぶんの座席に、ある日別の人間が座っていると、それがたとえ公共的な場所(たとえば図書館)であっても苛立たしい気分になる。あるいはさらにもっと遠く、たとえばテレビで船やヘリコプターからの中継を見ているとき、まるで酔ったような気分になることすらある。このようにわたしたちの身体の限界は、その物体としての身体の表面にあるわけではない。わたしたちの身体はその皮膚を超えて伸びたり縮んだりする。わたしたちの気分が縮こまっているときには、わたしたちの身体的存在はぐっと収縮し、じぶんの肌ですら外部のように感じられる。身体空間は物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するわけではないのだ。