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課題集 黄クリ の山

○「後世から」を読んで / 池新
○自由な題名 / 池新
○「第一に、歴史においては」を読んで / 池新
 これからの日本は「国際化」の波に洗われ、いろいろな人が外国からやって来る。当然日本人種も多様化する。国家権力、国籍の面でもさまざまな人たちが日本国籍を取得するから、白人の日本人、黒人の日本人なども出てくるだろう。
 だからこそ、日本民族のアイデンティティーにつながる文化的概念が非常に重んじられるのである。「日本語」という共通の言語文化を持っている人の集団、ドイツ流にいうなら、日本文学を自分の文学と感ずる人間が日本人、ということになるわけだ。
 ところが、共通の言語である日本語や文化としての日本文学は、タテの連なりがきわめて弱くなっているのである。いま述べたように、これも外国と比べてみれば明白で、シェークスピアを持つイギリス、ラシーヌ、コルネイユ、モリエールを持つフランス、あるいはゲーテを持つドイツに比べてすこぶる弱い。
 シェークスピアやゲーテが生きた時代の日本文学を、専門家以外の人たちがどれだけ理解できるかとなると、かなり悲観的にならざるを得ないのである。
 つまり、共通の言語である日本語そのものが大きな壁になっているのだ。文学において、口語体、文語体、古語や漢文などが入り交じり、若い人たちを非常にとっつきにくくさせているのである。だが、そのことを嘆いてもはじまらない。小学唱歌ではないが、共通の体験を持つことでタテ、ヨコのコミュニケーションを強化し、人間の絆を深めるにはどうすればいいか。問題はここである。方法がないわけではない。具体的には、国語の試験方法を改めればいいのである。どういうことかというと、例えば大学入試の「国語」のうち、日本文学に関しては、毎年、厳密に範囲を限定した古典から出すと決めるのである。
 英文学者の福原麟太郎先生は、「イギリス文学とは何ぞや」との問いに対して「英文学とは英文学史である」と言われた。名言である。英文学とはチョーサーであり、シェークスピアであり、ミルトンであり、ロレンスであり、エリオットであるというような、言語文化のタテのつながりを指すのである。
 その伝からすると、日本の言語文化も「古事記」や「日本書紀」の記紀から、「万葉集」や「古今集」などの和歌集、さらには「源氏物語」「徒然草」から松尾芭蕉、井原西鶴、夏目漱石、三島由紀夫の作品……という系譜のもとに連綿と続いている。
 私は若い人たちが日本文学というものにタテに連なる契機を与えるのが、教育の眼目の一つであると思っている。
 しかし、現実はそうではない。中学や高校でも上記のような日本文学に触れる機会がないわけではないが、あの作品もこの作品もと欲張ってしまい、ちょろっとしか取り上げていない。だから、たいして役に立っていないのである。
 試験に出る文学作品を予告して出題する。このやり方は大学入試に限らず、高校入試、場合によっては中学入試に取り入れてもいいのである。そうすれば、きちんとした言語文化が身についてくるはずだ。
 
 (渡部昇一「致知」1999年5月号より)

○学校 / 池新