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課題集 黄ケヤキ の山

○自由な題名 / 池新
○ひなまつり / 池新


★私がいつも言っているだろう(感) / 池新
 私がいつも言っているだろう。「神や仏に求めたり願ったりしちゃいかんぞ。神や仏というものは宇宙真理の代名詞なんだから、これは崇め尊ぶべきものだ。我れ、もし行きずり神に会いなば、何事も祈らじ」。これが天風哲学だ。何も祈らない。「ただひたむきに崇め尊び、我が命に与えたまいし大いなる力を慎ましやかにおろがみ奉る」。
 そんなものに会う気づかいはないけど、もし仮に天のおとっつぁんに会ったとするんだ。おとっつぁん、降りてこないですよ、天から。「御心(みこころ)の天におわしますごとく、地にもあらしめたまえ」っていうのは、人間が勝手にお願いしていることで、そうちょいちょい降りてこないらしい。まあ降りてきて、もしも会ったとしてもだよ、私は別に何にも、
 「ああ、これは神様、こんなところでお会いしましたか。普段からこういうことをお願いしたいと思ってたんですが、ひとつここんところはお願いします。何なら、いくらかお金あげますから」なんて言いやしない、あんた方みたいに。
 あなた方、すぐお金を出すものね。神様までお金で買収しようとする。また、買収できてる神様があるがためじゃなかろうかと思うけれども。
 私はただね、尊い姿に対して伏し拝んで、「生まれたとき、この命のなかにいろいろと大きな力をお与えくださってありがとう存じました」と、これだけのことよ。後はもらった力で、自分が自分自身を守っていけばいいだけなんだ。まだ祈るとか頼むとかって気持ちは、結局、安心した状態で生きてない証拠だもの。
 宗教を信じてる人は、変な狐憑(つ)きみたいな手つきしてね、結局は自分勝手なことばかり言ってるよ。「今これこれのことに悩んでおります。この悩みを大きな御力(みちから)をもって救いたまえ、教えたまえ」なんて、神を冒涜し、仏をないがしろにしていることになりゃせんかい。宇宙にたった一つしかないところの実在である真理を、自分だけにいいように悪用しよう、利用しようとする。それを信仰だってのはたいへんな違いだ。
 また、厳粛な真理のうえから言えば、天風哲学に目ざめたら、もう救われようとか助かろうとか、神や仏を祈る必要は何にもない。
 「成功の実現」(中村天風著)