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課題集 黄カキ の山

○自由な題名 / 池新
○地域社会 / 池新


★戦後の日本は、文字通り廃虚の(感) / 池新
 戦後の日本は、文字通り廃虚の中から立ち上がりめざましい復興を遂げ、特に一九五〇年以降の二五年間で、経済大国といわれるまでに成長した。ふつう年率四〜五%の成長でも高い部類に入るものだが、一九五〇年から七三年までの日本の経済成長率は、年平均一〇%を越えた。これほどの長期間、これほどの高成長を達成した例は他にない。日本はその間完全にその姿を変えた。戦争の敗北感は消え去り、発展をめざす国々の模範となったのである。
 一九五〇年代の年間成長率は一〇%をやや下回ったが、六〇年代は一〇%をやや上回るようになった。いずれにせよ、五〇年代と六〇年代では国民の生活水準が飛躍的に高まった。労働生産性、平均実質賃金とも急上昇した。表5(略)は、一九九〇年を基準とした実質賃金、税負担、税引後賃金、一人あたり実質GDP(国内総生産)を表したものである。税負担とは国税、地方税、社会保険料の国民所得に対する割合を示す。
 表5(略)をみると、物価上昇分を差し引いた後の一人当たりGDPが一九五〇年はわずか三八万円だったのが、一九七三年には二〇四万円にまで増加したことがわかる。これは二三年間で四三七%もの上昇である。そして税引き前の実質賃金は同期間に三〇七%も増加している。三〇七を四三七で割ると〇・七〇三となり、これはすなわち実質賃金の増加はGDPの増加分の七〇・三%にも及んだことを意味する。
 税引後の賃金をみても、日本人の生活水準は上がったことがわかる。一九五五年から七五年までの間に税負担は増えたが、これは社会保障関連支出の増加が主な原因である。国税と地方税の比率は、おおむね一定していた。税引後実質賃金指数は一九五五年が二一・一だったのが、一九七三年には五九・五となり、一八二%の増加となった。しかし、同期間の実質賃金上昇率は必ずしも順調な伸びとはいえなかった。表6(略)の実質賃金増加率からその違いがわかる。一九五〇年から一九五五年まで賃金上昇は生産性増加と基本的に一致している。しかし、一九五五年からの一〇年間は、賃金上昇は生産性増加の約半分だった。とはいえ、続く八年間で、賃金上昇が生産性増加にほぼ匹敵する伸びを示したため、賃金が生産性に追いついた。このことは、実質賃金が最初は労働能率の上昇に追いついていないことを示しており、また労働組合の勢力を反映しているとも思われる。つまり、組合の力が強いときには賃上げ率が高く、弱いときには賃上げ率が低くなるからである。
 では、日本は戦後どうやってそのめざましい産業能率の改善を成し遂げたのか。それは、資本や技術をとりいれ、戦時中開発した技術を平時において有効に活用できたからである。戦時における技術開発が、戦後も利用していける教育、技術面での基礎をつくりだしたのだ。この基礎は外国の技術を吸収するためにも欠かせないものであった。教育、技術水準の高い労働力なくしては、新しい発明や新しい技術に対応できないからである。
 日本人は確かに懸命に働いたが、適切な計画と政府の政策なくしては、あれほどの高度成長は不可能だったと思われる。日本の成長ミラクルの原動力はいったいどこにあったのであろうか。次に、その政策とは何だったのかをみることにしよう。
 戦前の日本の産業は多数の財閥、つまり独占企業の存在が大きかった。財閥は低賃金で労働者を雇い、高収益をあげた。他企業の参入を阻止し、労働者を酷使した。敗戦後、日本は米軍の占領下に置かれた。米国は財閥が日本軍国主義を助長したと考え、これを解体することに決めた。財閥のトップらはその座から降ろされ、保有株式も一般に売り払われた。占領軍はまた、財閥以外の大企業も分割した。日本製鉄や三井鉱山などがその例である。経済学者の中村隆英氏は、「このことが戦後日本の産業界の特徴となった激しい競争をつくりだすきっかけとなった。競争という圧力下での工場施設や設備の拡張、技術の進歩が経済成長をもたらした」と著書の中で述べている。
 産業界に激しい競争を持ち込んだことは、占領軍による日本への大きな贈り物といえる。日本だけでこれを実現するのは、おそらく不可能だからである。政治をも支配する富豪と戦うのはとても難しい。富豪たちの仕業がたとえ国を破壊するようなものであってもである。米国政府は同様の競争政策を自国にとりいれることが未だにできていない。産業界とそのおかかえ経済学者が常に阻止するからである。
 
 「株式大暴落」(ラビ・バトラ)たちばな出版より