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課題集 黄カキ の山

○自由な題名 / 池新
○ゴミ / 池新


★世界最後の偉大な王国は(感) / 池新
 世界最後の偉大な王国は、イギリス帝国であった。それには、ブリテンと呼ばれるヨーロッパの小さな島国が支配する海外属領が含まれていた。ローマとは異なり、イギリスは商業勢力、特に一七世紀末にインドに基盤を確立した東インド会社によってその帝国を築いたのである。一八世紀半ばまでにイギリスは、カリブ海や北アメリカ、インドに植民地を設立した。イギリスはアメリカにあった十三の植民地を、一七七六年のアメリカ革命で失ったが、一九世紀にはその領土を再び拡張し、東南アジアやオーストラリア、アフリカなどの地域を支配した。第一次世界大戦の頃には、帝国の領域は、世界の人口と土地の四分の一以上にも及んでいた。
 帝国は商業勢力によって始まり、それは独自の私兵を雇っていたが、植民地に対するイギリス軍の支配は、ローマの属州に対する支配と同じように絶対的なものであった。
 イギリス国内では、一六八九年の名誉革命とともに議会制民主主義が始まり、一八、一九世紀に着実に発展していったが、ほとんどの属領ではイギリス人の総督と陸軍将校が専制支配を行っていた。属国民は奴隷としての扱いは受けなかったが、いかなる権利も与えられていなかった。
 二〇世紀初頭、イギリスはインド、オーストラリアなど一部の属領に自治を許したが、植民地側は限定された自治に不満を抱いていた。植民地は選挙を行ったり議会を持つことはできたが、その権限は植民地国内に関する問題に限られていた。インドでは外国支配に反対する全面的な大衆運動が沸き起こり、ついに一九四七年独立を手にいれた。それに先立つ一九四二年、イギリスはオーストラリアに完全な自治を与え、その他の植民地も一九四七年以降、徐々に独立していった。一九六〇年までに、帝国はほとんど消滅していた。驚くべきことは、ほとんどの植民地が平和的な方法で自由を獲得したことで、これは歴史上初めてのことであった。
 イギリスは、色々な方法でその属領を搾取した。例によって植民地は帝国を潤し、その生活水準の向上に寄与した。イギリスは属領内における自由貿易政策を奨励したが、属領からの工業品輸入には関税をかけた。このように植民地は、保護を受けたイギリスの製造業者に安価な原料を供給し、イギリスは産業革命のおかげで初期のリードを保つことができたのである。但し、イギリスは属領からの工業品輸入に関税をかけることでそのような輸入を抑えたものの、原料には輸入関税はかけていなかった。
 もちろん、植民地は工業品輸入に関税を課すことは許されなかった。こうして、植民地はイギリスの産業に安価な原料と市場を提供し、そのため、イギリス経済は多岐にわたる成長を遂げた。繊維、工作機械、鉄、造船などの産業が急速に発展したが、植民地の産業は、イギリスから流入する大量の生産品によって破壊された。属領は異常に高い価格でイギリスから輸入されるサ−ビスの代価を支払うために、過剰な輸出をしなければならなかった。植民地で働くイギリス人の総督、文官や軍の将校たちは高給を支払われ、それはイギリスへの輸出超過によって稼いだ余分な外国為替によって賄われた。このように、イギリスの経済政策は、属国の犠牲のもとに、イギリス国民にのみ恩恵をもたらすように機能したのである。
 ローマとは異なり、イギリスはその被支配者を奴隷化しなかったが、他の方法で彼らから安い労働力を引き出した。属領民は徴兵のために利用され、二つの世界大戦で、最低限の生活賃金で、イギリスのためにその植民地を防衛した。こうしてイギリス軍は安価な労働力を得ることができ、そのおかげで国の財源を自国の経済発展のために活用することができた。
 しかし、植民地の労働力や製品市場を独占することにより、イギリスの産業の、他の先進国経済に対する競争力は弱まっていった。イギリスの企業は、ドイツやアメリカ合衆国の企業より効率性が劣っていた。したがって、帝国の崩壊後、イギリスは(少なくとも他の先進国に比べて)急激な経済的衰退に見舞われた。イギリスは、インフレ、労働争議、貿易赤字、そして常習的な通貨の値下がりに苦しんだのである。
 イギリスが、その経済的発展のために植民地をひどく搾取したことは明らかである。しかし他方で、植民地の社会機構に有用な貢献をしたことも確かである。イギリスは、植民地に民主主義制度や近代技術、そしてある程度の産業化を導入した。東インド会社に征服される以前は、民主主義はインドではなじみのないものだった。しかしイギリスに留学したインド人のインテリたちは、英語を学び、イギリスの法律や議会支配の概念を学んだ。そのため、独立後のインドは、イギリス帝国への併合前の支配形態だった君主制や独裁制に逆戻りすることはなかった。
 また、イギリス人は、インド人をその最も憎むべき社会的慣習から解放させることに成功した。例えば、何世紀も続いていたサティの慣習(未亡人を死んだ夫と一緒に生きたまま焼く慣習)は違法とされた。イギリスの法律、言語、文化は、元植民地で今でも健在である。
 
 「株式大暴落」(ラビ・バトラ)たちばな出版より