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課題集 黄カキ の山

○自由な題名 / 池新
○本 / 池新


★ローマは、特に最初の二〇〇年間(感) / 池新
 ローマは、特に最初の二〇〇年間は、帝国の文化、商業の中心地であった。帝国の属州に住む人々は、ローマに移り住み、ローマ市民となることを熱望した。そのためには、彼らは手段を選ばなかった。自ら奴隷として働くことさえいとわなかった。したがって奴隷労働は、強制的なものも、非強制的なものも、豊かなローマ経済を築き、そこでは、農業,製造業、商業のいずれの分野も繁栄していた。またローマ帝国は、植民地だけでなく近隣の帝国、インド、プロシア、中国などとも活発な貿易をしていた。主要産業は、陶器、繊維、金属、ガラスなどであった。これらの産業が輸出製品を提供し、その一方で香料、絹、宝石類などを輸入していた。
 輪作と施肥の発達により、農業が栄えた。もちろん、それも奴隷労働によって支えられていた。しかし全体的には非常に繁栄していたにも関わらず、その経済は、帝国の最初の二世紀間ですら完璧というにはほど遠かった。高い俸給や富を得ていたのは上流階級、特に軍人階級だけだったからである。一般の人々は肉体労働を嫌い、それを奴隷が一手に引き受けたが、奴隷の供給も時間の経過とともに減少していった。肉体労働の供給の減少により、ほとんどの産業の生産が減少した。それに加えて、イタリアは属国や属州に対し、常に貿易赤字を抱えていた。赤字は、一部は属州から徴収された税金によって、また一部は貴金属の輸出によって賄われていたが、その結果、帝国の金銀が流出した。ローマは、特に帝国の建設後三世紀目に入って、経済的に大きく衰退し、ついに四七六年、帝国政府が崩壊した。
 ローマ帝国の崩壊には、主に二つの理由がある。一つはすでに言及したように、経済的衰退である。もう一つは極端な軍国主義である。植民地における平和を維持するために、政府は巨大な陸軍と海軍を維持しなければならなかった。確かに帝国の最初の二世紀間は平和な期間が長く続いたが、それには大きな代償を支払わねばならなかった。政府は巨額の税金を課さねばならず、そのほとんどが属州にそしてある程度はイタリアの農民や商人に重くのしかかった。そのような重い税金の課税および徴税は、巨大な官僚機構や政府の浪費、生産の低下をもたらした。このように多額の軍事費と究極的な繁栄の喪失は、互いに関連し合っていたのである。
 ローマ社会はずっと昔に消滅したが、その業績の一部は今日まで残っている。ローマが人類に残した最大の貢献は、全ての人々は平等であり、政府が侵すことのできない、ある一定の権利を誰もが有し、また、人は有罪と証明されるまでは無罪である、という法の概念である。これは理論的には国家さえも超越した自然法の概念である。実際は、今と同じように当時もエリートたちが特恵的な処遇や裁判を受けていたが、この法の概念は今日でも西洋社会において普及しており、またすべての民主主義の基礎となるものなのである。
 
 「株式大暴落」(ラビ・バトラ)たちばな出版より