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言葉と映像 アジサイの広場
キウィいしわ高3 私は、スノーマンと言う絵本もアニメーションが好きだ。知っている人もいるかと思うが、スノーマンと言うアニメーションは、音楽と絵だけで出来 ているアニメーションである。言葉というものは無いのに、音楽が話し声とか笑い声とかが自然に聞こえてくるのが不思議なアニメーションだ。最 後結局は、スノーマンは解けて消えてしまいどこにもいなくなってしまうのだが、男の子のショックな顔は映像と音楽で十分演出できていた。もし そこのに言葉が入っていたら最後のシーンは台無しになっていたと思う。言葉が無かったから、自分達の想像で楽しめたり、悲しくなったりしたの だと私は思うのである。著者は、映像で方法は語れないと言っていたが、私は一部の映像では語れる気がする。しかし、言葉で表すよりは不確かな ものだが、出来ると思うのである。それが、スノーマンだと私は思うのだ。映像の価値は、映像自体にあるのではない。既成の言語体系に挑戦し、 言語に強い刺激をあたえて、それを活性化するところにあるのだと著者が言っている。  

 言葉は、色々な説明が出来るし、方法もたくさんある。だが言葉は、人々はその言葉と見て分った気がしまうが、本当の意味はわかっていないの
だ。それが出来るのは、映像なのである。小説とか読んでいると文章を色々な形で表している。たとえば、棒に棒という名前をあたえ、棒として認 識することで、個々の棒ではない、抽象的な棒一般(無限個数の棒)を手に入れることが出来た。すなわち、道具の使用が可能になったわけである 。猿も棒をつかう。しかし猿のつかう棒は、棒一般ではない。したがって、猿は道具をつかうことができないのである。人間はほとんどすべての存 在に名をあたえてしまった。単に名前をあたえただけでなく、物と物の関係を言葉の組立てによって言いあらわしたと著者はこのように表している 。言葉は、人々が何か説明するときにはとてもいいものだが、誤解されやすいかもしれない。なぜかというと、毎日のように人々の使っている言葉は  

 映像と言葉は両方とも芸術部分を持っている。だから、両方とも使ったら最高の芸術にも最低の芸術にもなる。真意を伝えるにもいいかもしれな
いが、使い方によっては言い伝え方と悪い伝え方になってしまうかもしれない。                                                      
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