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清書:個人 アジサイの広場
日本太郎あねひ中1

 社会は個人から成り立つものとされている。したがって実状はどうであれ、それぞれの個人は、社会の構造、運営、将来について責任を持つもの
として意識し、行動していることになっている。欧米人は日本人を権威主義的だとみることが多いが、それは日本人が常に世間の目を気にしながら 生きており、彼らからみると個性的ではないように見えるためである。日本人にはそれぞれ広い狭いの差はあれ、世間がある。世間は日常生活の次 元においては快適な暮らしをするうえで必須なものに見えるが、その世間がもつ排他性や差別的閉鎖性は公共の場に出たときはっきりあらわれる。  

 僕は、狭い世間の中に閉じこもるのはいけないと思う。
 

 第一の理由に、世間の中に入り込んでしまっていると、自分の意見を持っていても、世間が持っている意見と違うと世間が持っている意見に賛成
してしまうからだ。例えば、戦争がそうである。天皇のいうことを聞かなければならない。もし、聞かなければ警察に捕まる。自分の意見がもてな くなり、しかたなく意見に賛成するようになってしまう。僕は、自分の意見がもてなくなり、独立できなくなるようなことには反対だ。  

 第二の理由に、狭い視野でしか物事を見られなくなってしまうからだ。ある一定の世界の中でしか物事を見られなくなってしまい、世間の中に閉
じこもってばかりいて社会全体のことを考えないのはいけないと思う。  

 確かに世間の中に入っていないと不安になるのはよくわかるし、世間の中に入っていないと自己中心的になることもある。狭い世間に閉じこもっ
てばかりいて独立しないのではなく、自分の意見をしっかりと持ち、社会全体のことを考えられるようにならなければいけないと思った。                                                  
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