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人間の死
アジサイ の広場
りさ あいす 高1
 脳死を人間の死とみなすべきだろうか。普通人間の死は、心臓が停止して血
流がとだえ、それに続く全身の生命活動の停止としておこる。しかし、脳が先
に機能停止におちいることがある。これが脳死だ。脳死になった場合助かると
いう見込みはない。ただ、全身が死ぬのを待つだけだ。この、ほとんど人の死
ではあるが、完全な死ではないという中間的身体を、医者は人の死と判断して
よいのだろうか。確かに、脳死を人の死と判断すれば、移植治療によって他の
人を助けることができる。しかし、人の死までもを非人間的、合理的に考えて
よいのだろうか。やはり、人の死は人では解決できない、遠い存在であるべき
だ。
 
 人の死を人間的にとらえるためにはどうすればよいのだろうか?幅広い体験
をすることが必要だ。人間が、非合理的な考えをもつためには、様々な体験を
し、たくさんの失敗をのりこえることが大切なのだ。今まで、人間はなにもか
も科学の力によって、人間にとって役に立つもの、意味のあるものへとかえて
いった。今では、人の死までもを科学の力によって、人間に対して意味あるも
のへとかえようとしている。幅広い体験をし、様々なことに対して、様々な感
情を抱くことにより、人間性というものは生まれてくるのだ。
 
 また、世の中のものすべてを、すべて数字によってかたづけるという社会の
風潮を訂正する必要がある。現在偏差値にしろ、降水確率にしろ私たちが目に
するほとんどのものが数字によってあらわされている。これでは、まったく人
間性というものがあらわれず、ものごとがすべて合理的に片付けられてしまう
。まさに受験生がその例としてあげられる。受験生はテストのたびに偏差値に
ふりまわされて、精神的にもおちつくことができない。人間的な考えなど生ま
れもせず、ただ偏差値をあげることだけに力をそそいでいる。これでは死だけ
を人間的に解決しようとしても、無理な話だ。数字ですべてをあらわさずに、
人間性のある言葉であらゆるものを判断していくことが、大切なのではにだろ
うか。
 
 確かに合理的な考えにより、人間は急速に発展してきた。人間以外のものは
、それですんできた。しかし、人間の死という人間自身の物事に対してまでも
を、合理的に解決してよいものなのだろうか。人間に生まれてきたからには、
やはり人間で死にたい。これは、誰もが心の中で思っていることであろう。人
間の死というものは、無理に解決させようと試みるのではなく、人間の死その
ものを、手を加えず素直に受け止めることが必要なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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